意識高男と俗物太郎、ときどき苦界生(いきる)が行く

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地方国立大卒だけど「学歴」についての話題を終わらせてみようと思う③ 時代の趨勢とペーパーテストの関係#1

意識高男です。

 

前回は学歴の定義(このブログでの)、

 

「学歴」:ペーパーテストの点数による序列が、大学別に反映されたもの

 

であり、ペーパーテストで測れる能力とは下記であると書いた。

 

①ある程度の記憶力

②情報処理能力(知識の構造化)

③あまり面白くない大量の知識をインプットする作業(受験勉強)をこなす精神的な粘り強さ

 

では、上記の能力をベースとした「学歴」は社会でどう機能してきたのか。

どうせなら、遡れるところまで遡ってみたい。

するとどこへ行きつくかというと、大学ができた当初(帝国大学)まで行き着く。

 

ただし、調べてみると初期の帝国大学は基本的に当時の高校(旧制高校)からのエスカレーターで無試験であったそうなので、実質、旧制高校の受験が今でいうペーパーテストによる入試のスタートになる。

 

旧制高校の入試はいつから始まったかというと、これも調べると1902年(明治35年)の文部省告示第82号「高等学校大学予科入学試験規定」により、総合共通選抜制(全国統一の試験)からのようだ。

 

しかし、事前に受験者からヒアリングした志望校(第3希望まで)の情報をもとに、お上が勝手に進学する高校を選ぶというシステムであり、進学者の意欲低下を招き、しばらく経った1919年度からは学校別の入試になった。

 

要するに学歴を形成するペーパーテストの歴史は、今から100年以上昔の明治時代にまで遡ることになるのだ。

 

では、スタート地点まで遡ったところで、時代の趨勢とペーパーテストの点数による選抜の関係を下記の時代別にみていきたい(これから述べる歴史認識はあくまで、私見によるものなのであしからず)。

 

①欧米キャッチアップによる日本近代化の時代(明治初期~後期)

明治維新によって文明開化した日本がまずやった政策は「とにかく欧米に追い付け」である。

欧米の知識をインプットしまくり、日本の発展に役立てる。そのためには、まずは大学を作り、欧米の知識が詰め込まれた人を教員にする。

その教員が優秀な生徒を育て、政財界、産業界、または学会へと人をどんどん送り込み、彼らがそれぞれの職責において、その欧米の知識を活用する。

日本にも産業革命が起こり、近代化によって国が発展していく。

「欧米の知識のインプット」=「勉強」であるから、時代の趨勢(近代化)とペーパーテストで選抜された人達による日本社会のリードは、うまくリンクしていたと言える。

 

日露戦争から終戦までの軍国主義時代(明治後期~昭和中期)

近代化が進んできた日本は、それに伴い軍事力も高めていった。

だんだん時代が「欧米キャッチアップによる近代化」から、「世界の帝国主義に伍するための軍事力強化」パラダイムシフトいていった。

となると、学校教育もそれに伴って目的が「欧米の知識をたくさんインプットして日本の近代化に貢献する人」を輩出することから、「優秀な軍人」を輩出することに変わっていった(ホリエモンも同じようなことを言っていた)。

では、優秀な軍人とは何か?

当然、最先端の軍事知識をたくさん知っていることである。

最先端の軍事知識というと、いくら日本が近代化をしてきたとはいえ、まだ欧米に比べたらにわか近代化であり、最先端の軍事知識のストックは当時の日本にはない。

となれば、ナポレオン時代から近代の軍事知識を研究、発展してきた欧州、続いて米国の軍事知識が最先端に決まっている。

ということは、欧米の軍事知識をたくさん知っていることが優秀な軍人であり、

「欧米の知識のインプット」=「勉強」の図式がここでも成り立ちペーパーテストで選抜された人達による日本社会(軍国主義)のリードは、図らずとも成り立ってしまうのである。

 

 

次回は上記の続き、

③戦後から高度経済成長期(昭和中期~後記)について書いていきたい。

 

地方国立大卒だけど「学歴」についての話題を終わらせてみようと思う② ペーパーテストで測れる能力とは

どうも意識高男です。

 

前回、「学歴」は一つの「ものさし」であり、下記の良い面、悪い面があるものの、 基本的に僕は「思考停止ワード」としてネガティブな言葉として捉えていると書いた。

 

良い面:多くの人が(感覚的にざっくりとだが)理解できてわかりやすい

悪い面:学歴で図ることでその人を型にはめてしまう(人によってはネガティブな思い込みを植え付けてしまう)

 

では、まずそもそも「学歴」はどのような能力を担保しているのかというところからスタートしたい。

 

周知のとおり、我々は基本的に中学校までを義務教育で過ごし、その後、高校、大学入学時点で入学試験、いわゆる「受験」をしなくてはならない。

(これも周知のことと思うが、一部の学校は中学でも受験が必要だし、エスカレーター校は高校、大学の受験が不要の場合もある)

 

例えば大学受験の場合、国立大学を受験する場合は、大学入試センター試験を受けた後、2次試験といわれる各大学個別の試験を受けることになる。

そしてそれらは、いずれもペーパーテストである(私見だが、TOEFLのようにテスト自体を電子化してしまえば、大幅なコスト削減できそう)。

 

そのペーパーテストで何が問われるかというと、文科省指定の学習指導要領に則った、高校までの各科目で学習するべき内容、もっと端的にいうと「範囲が決まっている内容の知識を身に付けているか否か」である。

 

テストの結果、我々は点数で序列を付けられることになる(計算方法を変えれば点数が偏差値に置き換わる)

 

そして、テスト結果の上位者はテスト結果の上位者が集まる大学へ行くため、大学の序列が出来上がる。つまり「学歴」というのはペーパーテストの点数による序列が、大学別に反映されたものと言い換えることができる

 

なにを当たり前のことをくどくどと書いているんだ、と思われるかもしれないが、「学歴」についての話題を終わらせるためには、「学歴」というものをはっきりと定義しなければならないこともご承知願いたい。

 

ではそのペーパーテストで測れる能力とは、果たしてなんだろうか、それは下記である。

 

①ある程度の記憶力

②情報処理能力(知識の構造化)

③あまり面白くない大量の知識をインプットする作業(受験勉強)をこなす精神的な粘り強さ

 

まずそもそも、ある程度の記憶力がなければ、受験勉強に必要な大量の知識をインプットできないし、情報処理能力がなければ、覚えた知識をテストという限られた時間の中で活用することができない。

そして、最後に(ここが一番重要かもしれないが)、基本的に受験勉強というのは面白くないが、その面白くない受験勉強をやり続けるには粘り強さがなければならない。

(当然、テストという1時間、ないし2時間も集中して問題を解くという作業をこなすにも粘り強さが必要である)

 

ちなみに、よく「いい大学に入ったあの人は頭がいい」というようなことを聞いたり(自分でも言ったり)するが、この場合の「頭がいい」というのはあくまで上記の①「ある程度の記憶力」と②「情報処理能力」を指すことにしか過ぎないことを心に留めておく必要がある。

 

「頭がいい」というのはそもそも曖昧な表現であり、例えば我々は上記の記憶力や情報処理力に優れた人を頭がいいということもあれば、様々なアイデアを次々に出す人や会話の中でぱっと気の利いた返しができる人、誰も気付かなかったやり方を提案した人を指すこともある。

 

次回はそのペーパーテストで良い点をとり、良い大学に入った結果手にした「学歴」がこれまでに、社会でどう有効に機能してきたかを書きたいと思う。

 

 

地方国立大卒だけど「学歴」についての話題を終わらせてみようと思う① 学歴は思考停止ワードである

どうも意識高男です。

 

皆さんは「学歴」というという言葉を聞くとどういうことが頭に浮かぶだろうか。

たとえば、

 

・就職活動の時に意識する(「学歴が良いと有利な気がする」など)

・頭の良さの指標(「さすが東大」など)

・仕事で自分より優秀な人と比べてしまう時に考える(「まぁ俺は〇〇大だから」など)

・年収との関係(「雑誌PRESIDENTで特集される大学別年収ランキング」など)

・仕事のできなさを揶揄される(「あいつは勉強ができるだけだな」など)

 

などが挙げられる(当然人によって他にも様々ある)が、良い意味で使われる場合もあれば、悪い場合で使われる場合もある。

ただ、僕たちが「学歴」をどういうものとして使っているか一言で表すとすると、それは「ものさし」としてである。それもいろんなものを測れる(ただし万能ではないが)けっこう目の粗い「ものさし」だ。

 

その「ものさし」を使って測ることは、良い面もあれば悪い面もある。

それぞれ、下記に記すと

 

良い面:多くの人が(感覚的にざっくりとだが)理解できてわかりやすい

悪い面:学歴で図ることでその人を型にはめてしまう(人によってはネガティブな思い込みを植え付けてしまう)

 

僕は学歴について、良い面に関し、ある程度は肯定するものの、総じてネガティブなものとして捉えている。

というのも、「学歴」という言葉は「思考停止ワード」だからである。

(ここで言う「思考停止ワード」とは「これ以上発展性のある、建設的な話に繋がらない言葉」というような意味としてとらえていただきたい)

 

今回のテーマは、「学歴」というワーディングを「思考停止ワード」というネガティブな言葉として位置づけ、「学歴」関するなるべく多くの話題について終止符を打ってしまおうという試みである。

 

これで、教育熱心な親が読みそうな「AERA」や中堅ビジネスマンが読みそうな「PRESIDENT」で「学歴」の特集がされなくなったらしめたものである(なんてね)。

 

まぁ、僕自身は地方国立大卒なので、読んだ人からは「どうせ旧帝大早慶に入れなかった僻みだろう」というような誹りを受けるかもしれないが、こういうテーマを選んでいる以上、その通りである。

 

僕に旧帝大早慶に入れなかったコンプレックスがないかと言われれば嘘になるが、読んだ人にあまりそういうバイアスを植え付けないよう、それなりに筋の通る展開になるよう心掛けたいと思うので、一つよろしくお願いしたい。

 

②へ続く

 

 

 

 

 

 

    

糸井重里さんにはすごい惹かれるのに、糸井重里さんのコンテンツには惹かれないのはなぜだろう?④(最終回) そこはかとなく漂う日経ウーマン感がある、女性向けコンテンツが多い

俗物太郎です。

 

前回、僕はほぼ日のコンテンツは下記理由のためどうも惹かれないと書いた。

 

なんか学生ノリで楽しんじゃってる感(浮ついた感)を感じるため

・上記がユーザーに親しみを持たせるための、ビジネス戦略として捉えられるため

 

しかし、本当にそれで惹かれない理由がすべて説明がつくのだろうか。

そんな若干の疑念があったため、改めてほぼ日のサイトを見てみた。

 

するとどうだろう、驚いたことに上記の理由はあれよあれよという間に、急速に雲散霧消してしまった!

 

これでは僕はほぼ日を根拠なくdisっただけであり、ほぼ日ユーザーの方々を不快にさせただけになってしまう。

 

ただ、やはりこれだけは言える。

 

やっぱりコンテンツには惹かれない。

 

どうやら上記の理由だけでは片手落ちなようだ(片手にすらなっていないかもしれないが)。残りを補完する何か別の理由がいる。

 

ではその別の理由とは?

 

それは、ほぼ日の「女性化」である。

もう少し具体的にキャッチフレーズ的にいうと、

「そこはかとなく漂う日経ウーマン感」である。

 

今回の理由も前回同様、僕の悪意を感じる人がいるだろう。

だが、これも前回同様、そう感じるのだから仕方がない。

 

前回、ほぼ日から僕は、学生ノリで楽しんじゃってる感の圧を感じると書いたが、

今回の理由でほぼ日から感じるのは、

 

「私、仕事も子育ても両方頑張ってます。でも、女性らしさも忘れない。私は私らしく生きたいの」

 

的な圧だ。

 

これがキャッチフレーズにすると「そこはかとなく漂う日経ウーマン感」であり、この感じがほぼ日に横溢していることが、ほぼ日の「女性化」による、男性不在性を作り出し、僕がほぼ日に惹かれないもう一つの理由である。

 

具体的なコンテンツとしてはジャムの作り方だったり、編み物だったり、女性受けしそうなコンテンツが圧倒的に多い。

そういうコンテンツに惹かれる男性もいるにはいるだろうが、

僕からしてみると、そういう男性のイメージは

無印良品の商品に囲まれた生活をしている、野性味のないマスオさん」である。

 

どうも自分の文章から悪意がにじみ出ているような感じがするが、ただ単に僕がほぼ日のコンテンツに惹かれないというだけであって、決してほぼ日自体の存在を否定しているわけではないので、あしからず。

 

かつて、糸井重里さんは1980年代に「ヘンタイよいこ新聞」というコンテンツを作っていたことがあるが、ほぼ日からはそういう胡散臭い要素は感じない

(「ヘンタイよいこ新聞」の中身は見たことはないのだが、みうらじゅんはどうやらここが出発点になっているようだ、僕としてはどちらかというと、みうらじゅんの生み出すコンテンツの方が胡散臭くて惹かれる)

 

なんというか僕にとって惹かれるコンテンツというのは、胡散臭さや、男の汗臭さ、そして若干の下品さのようなものがあるものかもしれない。

胡散臭さや汗臭さ、若干の下品さがそのコンテンツ自体のクオリティを担保しているように感じるとも言い換えられる。

 

「ヘンタイよいこ新聞」がどうして現在の「女性化したほぼ日」になったのか、

その理由として僕は下記の仮説を立ててみた。

 

・ほぼ日の社員が、まさに日経ウーマンに登場するような、優秀な女性で占められているから

・上記によって女性向けコンテンツが増え、それに惹かれた優秀な女性がさらに入って来るというエコシステムが出来たから

 

上記を裏付ける理由のとして一つ事例を挙げたい。

 

現在の糸井重里事務所(会社名は「ほぼ日」ではなくこの名前)取締役CFOの篠田真貴子さんという方がいらっしゃるが、この方の経歴と糸井重里事務所に入社する理由がまさに上記に合致するのだ。

 

篠田さんは40代で二人の子を持つワーキングマザーであり、元マッキンゼーコンサルタントである。

 

糸井重里事務所に入社した理由は、当時転職したネスレで幹部候補として働いていたのだが、どうも楽しいと感じられない。しかし、ひょんなことから糸井重里事務所の仕事を手伝ったところ、とても面白く、「私がしたい仕事はこれだ!」と思ったそうだ。

 

この篠田さんこそ、まさに日経ウーマンに特集されそうな、自分らしく生き生きと働いている優秀なワーキングマザーそのものなのである。

 

そしてこれは想像だが、篠田さんが呼び水になって、糸井重里事務所に優秀な女性が何人か入っているのではないだろうか。

(そういえば、②で書いた、ほぼ日から生まれた気仙沼ニッティング代表の御手洗瑞子さんも元マッキンゼーコンサルタントだ)

 

そして、優秀な女性達は、プレゼン能力も高く、糸井さんをプレゼンに引き込み、次々と企画を通す。それが今のほぼ日の女性向けコンテンツの多さに繋がっているのではなかろうか。

 

少しでも、胡散臭く、汗臭く、若干の下品さのどれか(全部入っているのが望ましいが)のテイストの入ったコンテンツがあれば惹かれるのだが。

 

例えば僕がそんなコンテンツのタイトルをつけるとすると、

 

琉球の殺人空手の使い手と手合せしてみた(胡散臭さテイスト)

・二郎系ラーメンを求めて三千里(汗臭さテイスト)

・俺たちの画太郎先生(若干の下品さテイスト)

 

ただ、今のほぼ日では絶対に採用されないだろう。

 

とはいえ、糸井さんは「ヘンタイよいこ新聞」の実績もあるし、学生運動で留置場にも入った経験もあるし、体を柔らかくして自分のチ〇ポを舐めた経験もあるし、恐ろしく人間的な幅がある人である。

 

きっと、胡散臭さや汗臭さ若干の下品さテイストも好きなはずだ。

 

優秀な女性社員に押されすぎず、胡散臭く、汗臭く、下品なコンテンツもほぼ日に顔を出してくれると嬉しいのだが(やっぱり無理だろう)。

 

長くなってしまったが、最後にもう一度僕がほぼ日のコンテンツに惹かれない理由をまとめて今回のテーマを締めくくりたい。

今回も糸井さんとほぼ日ファンの皆さんごめんなさい。

 

<僕がほぼ日のコンテンツに惹かれない3つの理由>

なんか学生ノリで楽しんじゃってる感(浮ついた感)を感じるため

・上記がユーザーに親しみを持たせるための、ビジネス戦略として捉えられるため

・そこはかとなく漂う日経ウーマン感がある女性向けコンテンツが多いため

 

 

(終わり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

糸井重里さんにはすごい惹かれるのに、糸井重里さんのコンテンツには惹かれないのはなぜだろう?③ 学生ノリで楽しんじゃってる感との不和

俗物太郎です。

 

前回、僕がほぼ日手帳に惹かれない理由は値段の高さ(スタンダードなもので¥3,780)ではないと書いた。

 

では惹かれない理由は何か?

それは機能や性能にかかわるものではなく、コンテンツ自体が発するイメージのためだ。

批判を恐れずそのイメージを言葉にしてみると、

「なんか学生ノリで楽しんじゃってる感」だ。

 

穿った見方をしているとは思うが、どうもその浮ついた感じが、なんとなく性に合わないのだ。

 

ほぼ日手帳は、きっといろいろな試行錯誤や苦労を積み重ねて生み出されたすばらしいコンテンツだと思うのだが、いかんせんその、楽しんじゃってるオーラの圧に対し、防衛反応が先に来てしまう。

 

僕自身が他の事例で似たような感覚(楽しんじゃってる感)を受けたものとして、例えば下記のようなものがある。

 

・大学の学園祭

⇒いろんな出店があるが、店にいる学生が来場者よりテンションが高い場合は強く感じる。

 

・不倫騒動になる前のベッキー(有吉が「元気の押し売り」と言い得て妙なあだ名を付けていた)

⇒楽しんじゃってるオーラの圧を強く感じる(逆に今のベッキーからは当然のことながら圧は感じない)

 

フェイスブックリア充感溢れる近況(本人の笑顔写真付き)をアップする人のタイムライン

⇒上記のような人は、結構な頻度で近況をアップしていたりするため、フェイスブックを見るたびに楽しんじゃってる感が纏わりついてくる。

 

ちなみに、ほぼ日手帳以外で僕が惹かれない事例として挙げたコンテンツの

 

・言いまつがい

オトナ語の謎

 

からも同様の楽しんじゃっている感を感じる。

(ちなみに①でも書いたが、糸井重里さんと誰かの対談というコンテンツは除く)

 

まるで

「これ面白いじゃん?本にしてみよう。なぁそこの君、これ面白いだろ、な?」と先輩に笑顔で肩を組まれ、なんだか有無を言わせぬ圧を与えられているような感じを受けてしまうのだ。

 

僕の悪意を感じる人もいるかもしれないが、実際そう感じてしまうのだから仕方がない。

 

ただ、不思議なのは例えばAKB48などのアイドルの子が楽しんでいる姿をTVなどで見ても、楽しんじゃっている感は感じない。

 

それは何故だろう?

 

もしかすると、AKB48などのアイドルの場合は、それが仕事であり、TVで楽しんでいる様子を見ても、ある意味プロの仕事として徹している姿だと僕が見れているからかもしれない。

 

ただ、ほぼ日のコンテンツからは、どうもプロフェッショナル感よりも学生気分で浮ついている感の方を強く感じてしまうのだ。

(ほぼ日のスタッフの人は決してプロフェッショナルでないわけではない、ここは強く強調しておく)

 

もしかすると、ほぼ日は、あえてプロフェッショナル感を感じさせないようにして、学生ノリを前面に出し、親しみを持たせるというビジネス戦略をとっているのかもしれない。

 

であるとするならば、僕のような穿った見方をしてしまう人にとっては、その「あえての学生ノリ」に作為的なものを感じ取ってしまう。

 

以上で答えが出たような気がする。

なぜ僕がほぼ日のコンテンツに惹かれないかは下記の理由による。

 

なんか学生ノリで楽しんじゃってる感(浮ついた感)を感じるため

・上記がユーザーに親しみを持たせるための、ビジネス戦略として捉えられるため

 

何度も断っておくが、これはあくまで僕の妄言であり、僕がただ食わず嫌いなだけで、もしかすると、ほぼ日の商品を買い、そのコンテンツの中にひとたび身を投じてしまえば、製作者サイドと一緒に楽しめてしまうかもしれない(言葉は悪いが製作者サイドとのある種の共犯関係を構築してしまえれば、とも言える)。

 

ただ、今の時点で僕のスタンスは変わらない。

ほぼ日のファンは気を悪くするだろうが、これはただの僕の妄言であり、ほぼ日のコンテンツの品質を毀損せしめるものでは決してない。

あと、あえて繰り返し言うが、糸井重里さんは僕が憧れる人の中の一人だ。

 

 以上のような僕の考えはマジョリティにはならないだろうが、僕のように考えている人も一定数はいる気がする(というか少しくらいいてくれないと寂しい)。

もし、「俺もそう思っていたんだ」という人がいたら、一緒に酒を飲んだら盛りあがるかもしれない。

 

糸井重里さん、ほぼ日のファンのみなさん捻くれててごめんなさい。

 

 

 

 

 

 

 

糸井重里さんにはすごい惹かれるのに、糸井重里さんのコンテンツには惹かれないのはなぜだろう?② 糸井重里さんとの対談コンテンツは良いのだが・・・

俗物太郎です。

 

前回、僕は糸井重里さんに憧れているということを書いた。

じゃあなぜ彼のコンテンツに惹かれないのか?

その件に入る前に、もう一つ憧れている理由を書きたいと思う。

 

それは常に話題になっている人(または、なりかけている人)に接近して関わりを持っている点だ。

僕が知っている例を挙げるとすれば、有名な人言うと

 

・矢沢栄吉さん

任天堂の故・岩田社長

 

あと興味深かったのが、

 

・Habspotというアメリカの会社のCEO(グレイトフル・デッドにマーケッティングを学ぶという本の著者、結構面白かった、装丁も凝っていた)

・元ブータン首相フェローの御手洗瑞子さん(観光事業にについてアドバイスをしていたみたい)等だ。

 

(ちなみに御手洗さんはその後、糸井さんの企画した「気仙沼ニッティング」という東北の人たちが作る手編みの編み物を売る企画を発展させ、会社として独立させた後、その代表なられたので、僕は驚いた)

 

他に対談している人をネットで検索してみたが多すぎて書ききれない。

とりあえず、糸井重里さんは芸能人から会社経営者までまんべんなくあらゆる話題の人にコンタクトしている。

僕が話題になっている人でこの人面白そうだなと思った人は、たいてい既に(もしくは近いうちに)糸井重人さんと対談されている(海外の人も含め)。

大変うらやましい限りだ。

対談内容も当然のことながら面白い。

 

さて、以上のように糸井重里さん自身の話や、誰かとの対談に関して僕は大変興味を惹かれるのだが、どうも糸井重里さんの作り出しているコンテンツにはあまり惹かれないのだ。

もう少し具体的にいうと、糸井さんの主催している「ほぼ日」で生み出されるコンテンツだ。

断っておくが、僕は糸井さんを尊敬しているし、ほぼ日の種々の活動はすばらしいものが多いと思う(東北の復興支援など)。

ではそのコンテンツは例えば何なのかというと(気を悪くされる方がいたら申し訳ない)、

 

ほぼ日手帳(ほぼ日のメインコンテンツ)

・言いまつがい(いろんな言い間違いをまとめた本)

オトナ語の謎(会社に入ってから使いだすような言葉をまとめた本、「午後イチで」など)

 

あまり事例を挙げるのもよろしくないので、この辺にしたいと思う。

まず、ほぼ日手帳だが、これは大変人気があり、結構売り切れてしまったりもしている。

手帳自体は一日ごとに「日々の言葉」というメッセージが書かれていたり、カバーの種類がたくさんあったりして、人それぞれカスタマイズできる要素がたくさんあったりする。

また、手帳を作る様子もコンテンツとしてアップされており、製作者を含め、手帳のユーザーも楽しめるような情報発信も行っている。

(「ほぼ日手帳」というコンテンツ自体が一種のお祭りのような扱いになっている)

 

でも、お値段がちょっと・・・

オーソドックスなもの(手帳本体+カバー)で¥3,780・・・

(高いものではカバー付きで一万円を超えるものもあった)

 

まぁ、手帳自体もかなりいろんな要素が盛り込んであったり、カバーにいい素材を使ったりしていてそれなりにコストはかかっていると思われるので、そのくらいの価格になってしまうのかもしれないが、ちょっと高い気はする。

とはいうものの、僕がほぼ日手帳に惹かれない理由は値段が高いからではない。

 

続きは次回に。

 

 

 

 

糸井重里さんにはすごい惹かれるのに、糸井重里さんのコンテンツには惹かれないのはなぜだろう?①

どうも俗物太郎です。

 

糸井重里さんといえば名前を知らない人はほとんどいないだろう。平成生まれの人とかでは知らない人もいるのかもしれないが、彼の関わった作品の情報を付け加えれば、知らない人は皆無になるはず。

あえて書くと、スタジオジブリの作品のキャッチコピーはこの人が作っている。

(例えば、もののけ姫の『生きろ』など)

僕は昭和生まれなので、もう少し古い情報も含めると糸井重里さんについて知っていることは下記だ(順不同)。

 

・NHKの番組「You」の司会

徳川埋蔵金発掘をやっていた人

・ゲームの「Mother」を作った人(企画やシナリオ)

・もう一つゲームの「バス釣りNo1」の監修

みうらじゅんの師匠

沢田研二「Tokyo」の作詞

・矢沢栄吉・著「成り上がり」を作った人

 ・「ほぼ日」の社長

気仙沼にほぼ日の支部を作って震災の復興を支援

 ・学生運動をしていて留置場に入ったことがある

樋口可南子と不倫の末結婚

・体を柔らかくして自分のチ〇ポを舐めたことがある

 

大体こんなところだ(後の方のは下世話な情報だが)。

現在はほぼ日の社長として、毎日の更新といろんな人との対談をしまくっている。

ほぼ日での対談ではないが、僕自身で印象に残っている対談を下記に挙げてみる。

 

伊集院光との「Mother」についての対談(youtubeで見た)

吉本隆明との対談(「悪人正機」という本にまとめられている)

・文科系トークラジオ(初期)でのゲスト

・脳科学者の池谷裕二との対談(「海馬」という本にまとめられている)

 

ちなみに糸井重里さんは僕が憧れる人の中の一人だ。

この人の言うことは動画などを見れば実感できるが、すごい説得力があるし、

なんか勇気づけられることが多い。

(「お前はこれでいいんだよ」と言われている感じ)

さらにこの人は平易な言葉しか使わないのに、物事の見方や切り口をちょっと変えてみたりして話すものだから、はっとさせられたり、目からうろこがぽろぽろ落ちたりする。

たぶんそういうところに僕は彼に対し、ジョジョで言う「そこに痺れる憧れるぅ」という状態になったのだと思う。

 

というのも、彼の言葉は、芸能界からゲーム業界、ビジネスの世界などを縦横無尽に渡り歩いた、あり得ないくらい広く深い経験に裏打ちされているからだろう。

 

糸井重里さんに近い人という意味ではリリー・フランキーさんがそうかもしれないが、現在は俳優業に落ち着いた感じがあり、活動のカバレッジを考えると糸井重里さんに一日の長がある気がする(まぁ二人を比べる必要はないが)。

 

以上を踏まえたうえで、なぜ僕は憧れている糸井重里さんのコンテンツに惹かれないのだろう?

 

次回少し考えてみたい。