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自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件13

俗物太郎です。

 

東芝が組織としてPDCAを回すことが出来なかった要因の続きです。

 

②年功上列のシステム

年功上列のシステムの場合、通常社長になるのはその会社で地位を築いてきた人物です。そのため、基本はサラリーマン社長です。

 

東芝の悲劇」では、東芝の下降は1996年ー2000年に社長を務めた、西室泰三氏に端を発するとしています。西室氏は、先回説明したように、もともと営業畑出身で、これまでの東芝の社長がほぼ技術畑の出身だったことを考えると、珍しいことでした。

なぜ営業畑出身の西室氏が社長になったのでしょうか。90年代初期、東芝には重電部門(原子力などのインフラ系)と家電部門という2つの大きな柱がありましたが、市場はある程度成熟しており、大きな伸びが期待出来ませんでした。一方、パソコンに代表されるような情報機器の市場が国内外で伸びており、東芝は情報機器に必要になる半導体に力を入れることになります。

さらに、当時、DVDの企画統一でソニーと争っており、海外のタイムワーナーなど、関係する映画会社と交渉などが必要とされていました。

 

そこで、当時会長だった青井氏(1987年ー1992年に社長)が目をつけたのが、海外営業として電子部品を売りさばき、活躍していた西室氏でした。西室氏は東芝の中でも海外通として知られ、タイムワーナーとの交渉にも当たっていました。

青井氏の「これからは国内人材だけではやっていけない」という強い思いから、西室氏は、当時の東芝としては異例の副社長を経験しないまま社長になるという、抜擢人事で社長になりました。

 

西室氏の社長としての実績について詳細はここでは述べませんが、年功序列のシステムである以上、社長の次は当然、会長になります。

そして、会長の強みとしてあるのは社長に対する人事権です。

 

青井氏による抜擢人事で社長になった西室氏は青井氏を除いて後ろ盾がないため、自分の権力基盤は脆弱です。そのため、自身が社長の人事権を行使する際は、なるべく自分の影響力を保つような力学が働きます。

一方で、先回東芝の中には「名門意識」というコンセプトがあると述べました。この思いは、東芝会長としては、どこに向かうかと言うと、財界の総理である経団連会長に向かいます。

 

経団連会長は、有力企業の会長から選ばれ、かつ任期が4年のため、なるべく自分にお鉢が回ってくるようにするためには、会長職に長く留まる必要があります。

 

つまり、自身の「権力基盤強化」と、「現在の地位への固執」という2つの力学が働き、社長の人選は、当然自身が御し易いタイプを選ぶことになります。

結果、西室氏による東芝院政が敷かれることになります。

東芝の場合、年功上列のシステムによって生み出されたのは、西室氏による院政でした。

 

西室氏を含め、東芝の悲劇を生んだ4代の社長について、元東芝広報室長は「模倣の西室、無能の岡村、野望の西田、無謀の佐々木」と評しています。

この4人によって東芝の美風が損なわれ、成長の芽が摘み取られ、潤沢な資産を失い、零落したと、「東芝の悲劇」は書いています。

 

次回へ続く