意識高男と俗物太郎、ときどき苦界生(いきる)が行く

海外MBA留学したい、刃牙大好き、ちなみに嫁とはセックスレス

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件⑧

俗物太郎です。

 

⑤レイテ海戦

レイテ海戦は敗戦が濃厚になった日本のが持てる総力(戦艦、航空機)を挙げて戦った海戦であり、歴史上でも最大の海戦と言われています。

 

この海戦の目的は、着々と日本の本土を目指して北上してくる米軍に対し、フィリピンでこれを向かいうち、南方からの補給路確保と、米軍の本土上陸を食い止めることです。もし米軍にフィリピンを取られてしまえば、日本は南方からの補給ルートも分断され、本土上陸も時間の問題となり、日本の敗北が決定的になってしまいます。

 

そのため、日本軍はフィリピン海域のレイテ湾に突入し、米軍の水上部隊と上陸部隊、輸送船団を殲滅することを目的とした捷一号作戦という陸軍海軍合同の統合的な作戦を立案しました。

 

捷一号作戦は4つの艦隊(栗田、小沢、志摩、三輪の各艦隊長官)で編成され、戦艦9、空母4、重巡洋艦13、軽巡洋艦6、駆逐艦31の計63艦(これは当時の連合艦隊の戦力の8割に相当)に加え、潜水艦12隻、航空機716機(陸海軍機合計)という、大規模なものでした。

結局、この決戦が日本海軍が総力を挙げて戦った最後の決戦になりました。

 

レイテ海戦で実行された捷一号作戦が失敗した要因を下記に示します。

 

・戦力前提の崩壊、異常を前提としていた

・作戦目的が曖昧で実働部隊へ目的を徹底できていなかった

・通信能力が大幅に低下していた

 

では1つ目から見ていきましょう。まず戦力の前提が崩壊しているということはどういうことか。

この捷一号作戦は陸海軍の統合的な作戦であり、そのために航空機と艦隊の総力を挙げてそれぞれで米軍を攻撃することを前提にしています。

ただし、このレイテ海戦が始まる前に既に多くの航空機が米軍によって破壊されていました。

まず、レイテ海戦の前のマリアナ海戦で既に400機以上の失っており、さらに、フィリピン、沖縄、台湾に対する米軍の空襲により、合計700機以上を失ってしまいました。

日本軍はこのレイテ海戦で陸軍1,700機、海軍1,300機、合計3,000機の航空機で戦うことを見積っていましたが、作戦実行前に約1/4以上を失っていました。また、優秀なパイロットもミッドウェー海戦以降失っており、そもそもパイロットは育成に時間がかかるし、さらに優秀なパイロットとなるとさらに実践を経て経験を積んでいく必要があるため、航空機の損害以上に、パイロットの損失の方が大きいと言えるかもしれません。

 

またもう1つの異常を前提とした作戦というのはどういうものかというと、レイテ海戦に参戦する4つの艦隊のうち1つの艦隊(小沢艦隊)を全滅覚悟で囮として活用し、残りの艦隊で米軍を叩くということです。

上記の作戦会はフィリピンのマニラで行われましたが、会議上で、司令部参謀である神重徳大佐の発言としては、「フィリピンを米軍に取られてしまえば、南からの補給路が断たれ、連合艦隊も維持できなくなるため、この作戦で連合艦隊をすり潰しても構わないとの豊田司令長官のご意向である」と発言していることからも分かるように、既に玉砕覚悟の異常性が作戦に包含されていました。

つまり捷一号作戦は1/4の航空機が失われているという戦力の前提が崩壊し、かつ玉砕覚悟の異常性も包含しており、作戦の体をなしているとは言い難い作戦でした。

 

2つ目の作戦目的が曖昧で、実働部隊へ徹底できていなかったとはどういうことか。

ここでは、作戦を立案する艦隊司令部と、その実働部隊と2つに分けて考えます。

まず、艦隊司令部は先に述べたように、フィリピンを取られてしまえば日本は最期という危機感があったため、フィリピン上陸部隊を殲滅させなければならず、そのために、レイテ湾に突入しなければならないと考えていました。

そのために小沢中将率いる小沢艦隊を囮にし、レイテ湾を守っている米艦隊をレイテ湾から切り離すことで、日本の他艦隊がレイテ湾に突入しやすい状態を作ろうとしていたのです。

しかし、実際には残念ながらレイテ湾突入は実行されませんでした。

それは何故か。ここで実働部隊である栗田中将率いる栗田艦隊に視点を移したいと思います。

この栗田艦隊はのちにレイテ湾の直前で「謎の反転」と言われる反転行動を取ることになります。

では栗田中将はレイテ湾に突入し、米軍の上陸部隊や輸送船団を叩くということを理解していなかったのでしょうか?

いえ、そんなことはありません。先のマニラでの作戦会議上で司令部から作戦は伝えています。

ただ、栗田艦隊司令部の参謀である小沢少将は、司令部の神大佐に念を押すように一点確認しています。

それは、レイテ湾突入前に、もし敵主力艦隊と遭遇した場合には、栗田艦隊はそちらを優先するということです。これに対し、神大佐は「差し支えありません」と了承しています。

これが実は、レイテ海戦最大の山場での、謎の反転に繋がる最終判断の根拠となっています。

しかし、実際は小沢艦隊の囮作戦が功を奏し、レイテ湾付近に敵主力艦隊はおらず、レイテ湾入り口はガラ空きの状態でした。小沢艦隊は主力艦隊が近くにいると誤認し、反転をしてしまったのです。

ちなみに、歴史にもしもはありませんが、もし小沢艦隊がレイテ湾に突入していたらどうなっていたでしょうか。

実はレイテ湾内に停泊していた輸送船団の中には、後にGHQのトップになるマッカーサー大将がいたのです。マッカーサーは後の回想で「この時、勝利は栗田中将の手の中に転がり込もうとしていた」

と振り返っています。

ここで栗田艦隊が反転せずにレイテ湾に突入し、マッカーサー含めて輸送船団を叩いていたら、敗戦色濃厚だった日本の戦況が一変したかもしれません。

 

元に戻りますが、実際は司令部のレイテ湾に突入し、米軍の部隊を殲滅するという目的が明確ではなかったため、実働部隊の栗田中将に徹底させることが出来ませんでした。

 

この作戦目的の不明確さと実働部隊への不徹底というのは、ミッドウェー海戦時にも司令部の山本長官と実働部隊の南雲艦隊との関係という形で同じように現れていました。

 

結局、戦闘中では状況が混迷を極めていく中で、判断を積み重ねていく必要があります。

この時、作戦目的の達成のためには、いかに作戦目的を深く理解しているかにかかっていると言えます。それによって、大小含め最終的な判断ミスの数が変わってきます。

後に再度述べますが、日本海軍はDNAレベルで日本海軍の本分は艦隊決戦で相手を真正面から叩くことであると考えており、栗田中将は最終的にはこの考えに沿って行動することが正しいと判断したと推察されます。

 

3つめの通信能力の低下というのは、どういうことでしょうか。

それは、司令部の通信員が乗っていた栗田艦隊の旗艦である重巡洋艦愛宕」(艦隊側は旗艦を「大和」にすることを要望していましたが、足回りの観点から、戦艦よりも足回りの良い重巡洋艦の「愛宕」に変更されました)が米潜水艦によって被弾してしまい、通信員の相当数が被弾した愛宕を守る駆逐艦に乗り換えさせられ、そのまま補給基地へ戻ってしまい、通信員が足りなくなってしまったことです。

通信員の欠員は「大和」から補充されましたが、旗艦は「愛宕」だったため、旗艦としての通信に慣れておらず、かつ通信員間での連絡も不十分でした。

これらの要因が、先程述べた栗田艦隊の謎の反転に繋がっています。

 

レイテ海戦についてまとめたいと思います。

レイテ海戦で実行された捷一号作戦は、小沢艦隊を囮として使うというトリッキーな要素をもともと含んでおり、これは4つの艦隊が高度に連携を取らなければならないことを意味します。

 

しかし、実際は作戦実行前に、既に航空機が大量に破壊され、戦力の前提が崩壊しており、かつ、作戦目的が深いレベルで実働部隊の栗田艦隊に伝わっておらず、また艦隊の連携をする上で、神経系の役割を果たす、通信能力が大幅に低下しているという状態でした。

 

先に述べたように、捷一号作戦は連合艦隊をすり潰すという玉砕覚悟の異常を前提とした作戦の体をなしていない作戦であり、かつ実働部隊へ目的が深く徹底されておらず、連携を取るための通信も不十分という、ダメの上塗りになってしまっていました。

後付けにはなりますが、これはまさに失敗すべくして失敗した作戦と言えます。

「失敗の本質」の文中での言葉を借りると、この捷一号作戦は「高度な平凡性」が欠如していました。

 

次回でようやく最後の失敗事例である沖縄戦について書きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件⑦

俗物太郎です。

 

ガダルカナル作戦

 

ガダルカナル作戦の失敗はミッドウェー作戦と並び、太平洋戦争における日本のターニングポイントです。海戦のターンニングポイントをミッドウェー作戦とするならば、陸戦のターニングポイントがガダルカナル作戦になります。

 

ではガダルカナル作戦とはどんな作戦だったか。

真珠湾攻撃の成功によって勢い付いた日本海軍は日本の南のオーストラリアへの侵攻も考えました。その際、航空機の補給などを行う中間地点が必要であり、その目的で陸軍の力をかり、ガダルカナル島に空港を建設しようとしていました。

一方、米国海軍は戦争の最終的な目的を日本の本土侵攻に定めたため、その足がかりとして、日本に続く島々の1つであり、日本が空港を建設しようとしてたガダルカナル島を陥落させることが重要だと考えていました。

しかし、日本軍は米軍のガダルカナル侵攻を戦争終結に向けた足がかりだとは思わず、偵察程度に捉えていました。その為、日本軍が集めた兵力は約2,000人程で、その兵力で奪還しようしたのがガダルカナル作戦です(正しくいうと2,000人で攻略しようとしたあとに、2回兵力を大幅に増員した上で総攻撃を行なっており、それらも含んだ敗北をガダルカナル作戦と呼んでおります)。

実際、その時ガダルカナル島にいた米軍は日本の兵力の約6倍の13,000人でした。そのため、日本の第一陣はその圧倒的な戦力差でやられてしまいます。

またこの時米軍は、日本軍に対する新たな戦法として、水陸両用作戦というものを開発していました。それに対する日本軍の島における戦法は従来通りの白兵戦を主体としたものでした。

このため、日本軍は第2陣を投入しようにも上陸前に米軍の航空機から攻撃を受け、重火器や食料の大半を失ってしまいました。

なんとか上陸できた第2陣も米軍に対しては、少ない重火器に、白兵戦をベースとした戦法だったため、これも一方的にやられてしまいます。しかも、一気に攻め込むのではなく、これは連携が困難だったこともありますが、部隊毎の攻撃になってしまったため、戦力が集中せず、敵にとっては攻めやすい状態になってしまいました。このことがよく戦いの中で悪手の事例として言われる、戦力の逐次投入です。

 

ガダルカナル作戦が失敗した要因は、主に下記3つになります。

 

・戦略グランドデザインの欠如と作戦の成否は実働部隊任せ(どうしたいのかがない)

・事実の軽視による戦闘フィードバックがなされていない(どうなっているか分からない)

・陸海軍の縦割りの組織体制によるリソーセスの活用不足(力を活かしきれていない)

 

1つ目は上述したように、米軍がガダルカナル島を足がかりに、ゆくゆくは日本で本土決戦をしようと考えていたのに対し、日本はそもそも海軍と陸軍で目指す方向が異なっておりました。

陸軍は中国を完全に侵略し、大陸において確固たる拠点を築くことを目指しており、一方海軍は艦隊決戦における米軍の各個撃破していくことを目指していました。

そのため、このガダルカナル島での飛行場奪還について、日本軍はさしたる重要性を感じておらず、場当たり的な対応になり、先述した戦力の逐次投入が行われてしまいました。

また作戦についても十分に練られないまま現場の指揮官任せになっていました。

 

2つ目は、米軍の水陸両用作戦という新たな戦法により、米軍が島々を1つずつ攻略しながら、日本本土に近づいて来ているのに対し、日本はその変化にも気付かず、対応ができていませんでした。

さらに作戦司令部も現地で起きている悲惨な状況を見ようとしなかったため、圧倒的に劣勢な状況にもかかわらず、現場からのフィードバックが十分になされず、歩兵による攻撃をズルズルと続けていました。

 

3つ目は、そもそも米軍が統合作戦本部によって陸海軍を連携させながら作戦を作っていったのに対し、日本は統合作戦本部にあたるものがなかったため、陸軍、海軍の意見がまとまることがなく、それぞれがそれぞれの思惑によって戦争を行なっていました。

そのため、ガダルカナル作戦においては、例えば補給の観点でいうと、艦艇による補給物資運搬はなされたものの、他の艦による護衛はほとんどなく、あったとしても連続飛行距離ギリギリの超超遠距離からやってきている零戦に頼っていました(実際零戦ガダルカナル島上空で戦えていたのは15分程だったようです。余談ですが小説の「永遠の0」でもこの事は言及されていました)。

このような点からも陸海軍が十分に連携できていませんでした。

 

上記3つを合わせると、ガダルカナル作戦において、日本軍はどうしたいかというグランドデザインがなく、なにがおきているかも分からず、力も十分に活かしきれていなかったため、負けるべくして負けてしまったと言えます。

 

ガダルカナル作戦以降は、皆さんもご存知のように、アメリカ軍は島々を次々に制覇しながら日本に近づき、最終的には沖縄に上陸することになります。

 

次回は⑤レイテ海戦について説明したいと思います。

 

 

 

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件⑥

俗物太郎です。

 

 ③インパール作戦

この作戦は知っている方もいると思いますが、無謀という言葉の代名詞となるような作戦でした。

あまりにも沢山の日本軍の兵士が死んだため、作戦で通った道は後に白骨街道と呼ばれるようになりました。

ではインパール作戦というのはどんな作戦だったのか。

太平洋戦争時、ビルマ(現ミャンマー)を防衛していた日本軍は戦局の悪化に伴い、隣のインドに駐留していた英印連合軍に対し、防御に徹するのではなく、日本軍側から積極的に侵攻する攻撃的防御を図る必要があるという考えを持っていました。

連合軍のいるインパールまで侵攻し、これを攻略するというのがインパール作戦です。ただし、地理的な問題があり、インパールに侵攻するためには、間にある険しい山やジャングルを超えていかなければなりませんでした。


そのような困難があるにも関わらず、無謀にも決行されたこの作戦は、日本軍に甚大な被害をもたらしました(参加兵士 10万人のうち、戦死者約3万人、戦傷者約2万人、残り5万人のうち半数は病人〔マラリアなど〕)。

では、なぜこのような作戦が実行されるに至ったのでしょうか。

この作戦の失敗の要因は大きくいうと下記の2つです。

1.精神主義に基づいた参謀の暴走

2.情緒的判断の優勢によるガバナンスの欠如

 

1.精神主義に基づいた参謀の暴走

ここでいう参謀というのは司令官(ビルマ方面軍第15軍)の1人だった牟田口中将のことです。

牟田口中将がこの無謀な作戦をと発案したのは個人的動機があるといわれています。

日中戦争の発端なった事件といわれている蘆溝橋事件の時、牟田口中将は連隊長でした。

そして、牟田口中将は自分の判断によって大規模な戦争に発展させてしまったのではないかという国家に対する負い目がありました。

そのため、その挽回のチャンスを伺っていた牟田口中将にとって、インパール作戦はまさに絶好のチャンスだったのです。

ただし、そのためには先ほど述べた地形上の困難などを乗り越えて行かなければなりません。

とそれを払拭させるために、積極的な攻撃による防御という精神主義に基づいたコンセプトでインパール作戦を発案したのではないかということです。

 本来なら、ここでどうやって作戦実施をする上での困難を解消していくかということを詰めなければならないのですが、戦局の悪化もあり、いつ連合軍が攻めてくるとも限りません。

予断を許さない状況の中で、現実的な解を持たないまま、結局、積極的攻撃による防御というコンセプト先行の精神主義が作戦の拠り所となってしまいました。

これは、前々回に述べたノモンハン事件とも相似形をなします。そして、このような精神主義が作戦の根幹にあると、以下のような弊害がでてきます。

・事実の軽視

・代替案の欠如

・反対意見の封殺

 

1つ1つ見ていきましょう。これはノモンハン事件の時とも重なります。

まず事実の軽視ですが、いくつかあります。インパール侵攻には険しい山やジャングルを超えていかなければならないのですが、そのためには当然十分な補給が必要になります。しかし、その時の牟田口中将の判断は、食料については、インパールに駐留していている敵から奪えばよいというものでした。

そのため、最短で到達する前提で必要になる、3週間分の食料があれば良いという結論になりました。ちなみに、移動の障害になるという理由で、重火器の装備は減らされていたため、攻撃された時の反撃能力も小さいものでした。

また、牟田口中将は連合軍の兵力を見くびっていました。それは、これまでのビルマでの戦闘経験に基づいたものでしたが、一方で連合軍も日本軍を空爆し、それが有効だということを確信しており、従来の方法から航空部隊と連携した攻撃方法をアップデートしていました。

この変化に日本軍は攻撃を受けていく中で、気づく機会はあったにも関わらず、連合軍に対する認識を変えませんでした(このことからも事実を軽視していることが分かります)。

さらに、連合軍は斥候などによって日本軍の作戦や動きを事前に把握していました。

そのため、連合軍側の司令官は、あえて後退することで、日本軍の兵站を伸ばさせ、行軍でヘロヘロになった状態の日本軍を叩くことで、効率的にダメージを与えていました。

 次に、代替案の欠如ですが、もともと補給が必要なのに最低限の食料で強行された作戦のため、失敗する可能性はかなり高いにも関わらず、代替案は考えられていませんでした。

これもノモンハン事件の時にも書きましたが、精神主義が根底にある場合、代替案というのはしばしば、消極的な姿勢というネガティブなものに捉えられてしまいます。結果、代替案を作ることを進言した人もいたようですが、上記のような理由で、牟田口中将からは厳しく叱責されました。

また、反対意見についても慎重論というようにネガティブに捉えられてしまい、それも封殺されました。このように、作戦に対して反対ができないムードが形成されてしまったのです。この結果、無謀な作戦が発動するに至りました。

 

 2.情緒的判断の優勢によるガバナンスの欠如

 これは、1の要因とも関係し、これもノモンハン事件を彷彿させるものがあります。

ビルマ方面軍の司令官は河辺中将という方でしたが、この河辺中将は実は、牟田口中将の元上司でした。

そのため、牟田口中将のもつインパール作戦で過去の負い目を挽回したいという心情も理解していました。そのため、インパール作戦が無謀と知りつつも、牟田口中将に対し、「こいつにひと花咲かさせてやりたい」という人情が働いてしまいました。つまり、方面軍においてインパール作戦は、具体的な実現性よりも、人情が優先されるという、情緒的判断によって承認されてしまいました。

また、日本にある大本営では、ノモンハン事件でもあったように、「現地がやると言っているのだから任せてやろう」という情緒的な判断によって、インパール作戦を追認してしまいます。

実はこの作戦を追認する判断の裏には、情緒的な判断以外もありました。このとき、戦局の悪化に伴って当時の東條内閣の支持率は低下してきており、政権維持のためにも、何か戦果になるようなものを探していました。インパール作戦承認の裏には、このような政治的判断もありました。

ちなみに、この時の東條首相はインパール作戦のことを聞いた時に、補給も含めた実現性について至極真っ当な質問を大本営にしているのですが、大本営は既にやると決めていたため、問題なしと回答しました。

 本来、軍隊というのはガチガチの官僚的組織であり、情緒的判断が横行する余地を排除するような組織のはずです。

なのに、なぜノモンハン事件インパール作戦のように、現実的判断に対し、情緒的判断が勝ってしまうのでしょうか。

そして、これはまさに日本軍という組織が持つ大きな特徴の一つと言えるのではないでしょうか。

次回に続く

 

 

 

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件⑤

俗物太郎です。

 

ミッドウェー海戦

 

このミッドウェー海戦は、太平洋戦争において日本の敗北を決定づけたと言われている海戦です。

 

では、一体ミッドウェー海戦はどんな作戦で、何がまずかったのでしょうか。

 

どんな作戦かというと、ミッドウェー攻略によって、米空母を誘出させ、それを真珠湾のように航空機で奇襲し、米国艦隊に甚大な被害を与えるというものです。この作戦の立案者は山本五十六 連合艦隊長官です。

 

山本長官は米国との戦争は長期戦になったら、日本に勝ち目はないということをはっきりと認識していました(山本長官は米国へ留学経験があり、その際に日米の国力差[生産力差など]を肌で感じていました)。そのため、米国に対しては、短期で甚大な被害を与える奇襲が有効であるという結論に達します。

ミッドウェーでの奇襲が成功し、それによって米国の厭戦ムードが高まれば、米国議会で必ず戦争中止になるだろうと読んだのです(その後は、講和に持ち込み、日本に有利な条約を締結してしまえば良い)。

 

この作戦自体は、その時の海戦におけるトレンド(空母と航空機を連動させた戦闘)を踏まえていたし、米国の特徴も加味したリーズナブルなものでした(実際、1960年代のベトナム戦争では、米軍の被害が大きくなったため、米軍はベトナムから撤退しています)。

 

よく太平洋戦争というと圧倒的な兵力の米軍と、少ない兵力の日本というように対比されますが、実はこのミッドウェー海戦において、日米に兵力差はありませんでした(米国空母3隻に対し、日本は4隻)。むしろ、航空機の性能(日本は有名な零戦)やパイロットの練度では日本の方が優れていました。

 

ただ日本の不利な点としては、米軍はこの時日本軍の暗号を解読しており、作戦がほぼ筒抜けになっていたということに加え、索敵のためのレーダー能力に差があったということがあります。

 

作戦が筒抜けになっていた時点で奇襲するということ自体が成り立たなくなっているので、そうなると日米の司令官の現場レベルでの意思決定の差が勝敗を決定する要因になります。

 

ではミッドウェー海戦で日本軍はなぜ負けたのか、要因を下記に示したいと思います。

 

・作戦の二重性

・長官⇨司令官への作戦目的の不徹底

日本海軍の艦隊決戦思想という刷り込み

・リスクを見込んだ代替案の不在

・情報取得の重要性を軽視

・被弾時における空母の脆弱性

 

作戦の二重性というのは、このミッドウェーでの作戦が「ミッドウェーの攻略」と「米国空母を誘出してこれを叩く」という2つの要素があったということです。山本長官は先に述べたように、米国の空母を叩いて甚大な被害を出し、米国に厭戦ムードを起こして戦争を終わらすことが目的でした。つまり、ミッドウェー攻略よりも、米国の空母を叩くことの方が重要だったのです。

 

そこで2つ目の長官⇨司令官への作戦目的の不徹底に繋がります。

この ミッドウェー海戦で主役となるのは、第1機動部隊の南雲司令官ですが、実は南雲司令官は作戦目的はミッドウェーの攻略だと思っていました。そんなアホなと思うかもしれませんが、山本長官は自身の考える作戦目的の理解活動を十分にしていなかったため、南雲司令官はミッドウェーを攻略した後、艦隊決戦をするものだと思っていました。

じゃあ山本長官から南雲司令官に逐次無線で指示をすれば良いのではないかと思うかもしれませんが、先程述べたように、この作戦は奇襲の要素があったため、相手の無線傍受を避けるため、無線の使用は禁じられていました(これは米国側も同じです)。

 

そのため、戦局は司令官の現場の判断に委ねられていました。

 

一方、米国は太平洋艦隊を率いるニミッツ長官をトップとし、以下フレッチャー司令官や、スプルーアンス司令官がいました。そして、作戦には、とにかく日本軍の空母を撃破するという明確な目的がありました。さらに、長官⇨司令官の意思統一を図るため、作戦開始まで3人は同じ屋根の下で寝食をともにしていました。

 

日本は米国に対し、情報収集力の面では劣っていました(先に相手の艦隊を発見したのは米国)。これは、既に戦争の準備段階で、日本軍は米国ほど情報の重要性を意識してなかったと言えます。ちなみに、皮肉なことに米国が使っていたレーダーは日本人が発明した八木アンテナを活用したものだったようです。日本は自国の発明品の利用価値に気づいていませんでした。

 

また、空母も艦隊決戦思想に現れているように、攻撃を重視していたため、そもそも防御力を上げることが疎かになっていました。

 

結局、ミッドウェー海戦では何が起きたのか。南雲司令官は米国の間断ない戦闘機からの攻撃に対し、逐次撃破をしていましたが、 米空母の艦隊が近くまで来ているとは思わず、攻撃はいずれ終わるだろうと思っていました。そこで、米国の戦闘機と戦っていた日本の戦闘機は一度、空母に戻して体勢を整えさせ、後ろに控えている戦闘機部隊を出撃させようとしていました。

 

しかし、そうは行かず、ちょうど第一陣の収容と、第二陣の攻撃準備で艦上が混乱している時に、新しい米軍の戦闘機部隊が来てしまい、その爆撃をモロに受け、火薬満載の第二陣が艦上にいたために大爆発を起こし、結果4隻あった空母の3隻を失うことになりました。

 

実はこの少し前に、第1機動部隊以下の第2航空戦隊の山口司令官が、南雲司令官に米国空母がいるかもしれないから、第一陣を収容する前に、第二陣を出撃させるべきと意見を具申していました。しかし、南雲司令官はまだ米国の次の攻撃は来ないだろうという思い込みと、先に第二陣を出撃させてしまったら、その間に帰投しようとしていた第一陣が燃料不足で着水することになってしまうという躊躇があり、山口司令官の意見を退けてしまいます。

 

この判断が仇となり、日本軍の空母3隻は爆撃を受け炎上し、先程述べたように日本の空母は防御が脆弱なために、炎上が抑えられず航行不能になり、ミッドウェー海戦における敗北が決定づけられたのです。

 

ちなみに、米国の空母を日本も爆撃したのですが、米国の空母は爆撃を受けた時のことも考えられた設計だったため、 火は2時間ほどで鎮火されたようです。そのため、日本軍は米国の空母を撃沈したと思い込み、鎮火された空母が現れた時には、別の新しい空母が現れたと認識してしまったようです。

最終的に、1隻残っていた日本の空母も爆撃されてしまい、全ての空母を失いました。

 

このように、当初は劣勢な面もあった米国が、作戦通り日本の空母を撃破することができたのも、日本側の要因に加え、米国司令官のスプルーアンスの、全軍で日本の空母を攻撃するという果敢な判断によるところも大きく影響していました。

 

これは、ニミッツ長官がスプルーアンスと寝食をともにして、作戦目的の伝達に努めた結果とも言えます。

 

今となっては、ミッドウェー海戦は日米での作戦に対する、意思統一の徹底具合の差で、既に勝敗が付いていたと言えるかもしれません。その差が、現場レベルでの意思決定の差となり、結果、日本は敗北を決定づける判断ミスをしてしまいました。意思決定の差による敗北は、すなわち組織としての敗北と言えます。

 

次回はインパール作戦について説明したいと思います。

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件④

俗物太郎です。

 

先回、自衛隊という組織の特徴をあぶり出すために、旧日本軍が持っていた特徴をあぶり出したいと述べました。

 

これを実施する上で、幸いにも大変参考になる本があります。知っている人も多いかもしれませんが、「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」(戸部良一、他)です。

 

これは、太平洋戦争における諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗と捉え直し、これを現代の組織一般にとっての教訓として活用することを狙いとして書かれた本です。

歴史の勉強にもなるし、いろいろ示唆に富むことが書いてありますので、興味がある方は、是非読まれることをお勧めします。

以降、今回のテーマのベースになる考え方は、この本を参考にしています。

 

さて、この本に書かれている日本軍における失敗の本質を一言で表すと下記になります。

 

「日本軍は組織としての学習棄却ができていなかった」

 

学習棄却という難しい言葉があるので、もっと馴染みがありそうな言葉に置き換えると下記のようになります。

 

「日本軍は組織としてのPDCAが回せていなかった」

 

さらにこれを、下記のように変えると、今回のテーマの結論になります。

 

「日本の組織はPDCAが回せていない」

 

以降、「失敗の本質」で言及されていることに僕自身の考察も加え、なぜ日本の組織はPDCAが回せていないのか明らかにしていきたいと思います。

 

では日本軍の話に戻ります(しばらく「失敗の本質」に書かれている内容が続きますので、本を読んだ方や、太平洋戦争に詳しい方は、読み飛ばして下さい)。

 

「失敗の本質」では下記6つの作戦について取り上げているので、それぞれざっくりですが説明していきたいと思います。

 

ノモンハン事件

ミッドウェー海戦

インパール作戦

ガダルカナル作戦

⑤レイテ海戦

沖縄戦

 

ノモンハン事件

 

これは、当時中国で日本軍が作った満州国外モンゴルとの国境における、ソ連軍の武力衝突のことです。当初、国境付近でのちょっとした小競り合いでしたが、その後大規模な武力衝突に発展しました。

これによって、日本軍、ソ連軍共に2万人近くの戦傷者が出ました。圧倒的な物量のソ連軍に対し、日本軍は最終的に撤退したのですが、その時には各部隊の損耗率が60〜70%もあったようです。

 

ソ連軍と日本軍の兵力について、「失敗の本質」での内容をを読み解いて下記に示したいと思います。

ソ連軍の兵力は、ソ連内陸部から前線へ送られた兵力も含め、およそ狙撃3個師団(約27大隊)、戦車4個旅団以上(600両以上)、飛行機2個旅団(約300機)、装甲車二個旅団(150-200両)、他(砲兵2個連隊。通信2個大隊、架橋1個大隊、給水工兵1個中隊)です。

 

ちなみに軍の単位は下記を参考下さい(近代陸軍の場合。また、数は国、時代によっても異なる)。

師団:10,000 - 20,000人

旅団: 2,000 - 5,000人

連隊: 500 - 5,000人

大隊: 300 - 1000人

中隊: 60 - 250人

 

これに対し、日本軍は第23師団と中心として、歩兵9大隊、火砲約100門、戦車2連隊、高射砲1連隊、工兵5中隊、自動車400両、飛行機約180機でした。

 

日本軍とソ連軍で単純な兵力の比較は難しいですが、歩兵だけでも日本軍に対して3倍の差がありました。

 

では、このような兵力差があったにも関わらず、なぜ日本軍はソ連軍に対し武力衝突を仕掛けたのでしょうか。

 

主な要因は下記です。

 

ソ連軍の兵力を過小評価(情報の軽視)

関東軍満州)参謀の暴走(参謀の発言力が大)

・参謀の暴走を認める雰囲気(精神主義の支配)

・軍本部(日本)の関東軍に対する曖昧な指示(責任分担が曖昧)

 

どういうことかというと、そもそも日本軍はソ連軍を見くびっていました。その前提のもと、オラオラ系の参謀が、やらなくても良いのにソ連軍をやっちまえと考えて作戦を立てます。

実際に一部、やめた方がいいんじゃないかという冷静な意見がありましたが、そういう意見は消極的な姿勢であると周囲から判断され、潰されてしまいました。

また、日本の軍本部も、まぁ現地(関東軍)に任せておくかという感じで、戦局が悪化しているのを知りつつもはっきりと作戦中止命令を出さず、「少しずつ投入兵力を減らせ」というような、暗に作戦中止を示唆するような曖昧な表現で、現地に指示を出していました。当然これでは誰が作戦に対する責任者なのかがよくわかりません。

 

上記のような理由によってノモンハン事件は日本軍にとって大きな被害を出してしまいました。

それにもかかわらず、司令部は厳しい責任を取らさせることはなく異動や更迭の処分に留まり、逆になんとか戦場から生き残った部隊長が、敵前逃亡したと判断されて自決を強要されたそうです。

そのため、日本軍は貴重な経験を、その後に活かす機会を自ら潰してしまいました。

 

次回は日本敗戦のターニングポイントとなったと言われているミッドウェー海戦について、説明していきたいと思います。

 

次回へ続く

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件③

 俗物太郎です。

 

さてそれでは自衛隊の組織について見てみましょう。知っている人も多いとは思いますが、自衛隊内閣総理大臣をトップに、防衛大臣と続き、その下に統合幕僚監部、および陸上/海上/航空自衛隊が並んでいます。また、行政面で防衛大臣をサポートするため、防衛省の内部部局も並んでいます。

 

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自衛隊組織図(防衛省HPより)

次にアメリカ軍の組織図を見てみましょう。組織図では、国防長官(Secretary of Defense)が一番上になっていますが、トップはアメリカ大統領です。国防長官の元には、統合参謀本部Joint Chiefs of Staff)、陸海空軍が並んでいます。また、アメリカ国防長官府(Office of the Secretary of Defense)が自衛隊組織図中の内部部局のように並んでいます。

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アメリカ軍 組織図(国防総省Wikipediaより)


二つの組織図を見て分かるように、自衛隊もアメリカ軍も組織としてはほとんど同じです。それもそのはずで、自衛隊設立時にアメリカ軍が関わっているために、似たような組織になるのは当然です(世界の軍組織もだいたい同じ)。

 

そのため、組織図だけを見ても、自衛隊という組織の特徴はあぶり出されません。

僕は組織論の専門家ではありませんが、組織の特徴を見るためには少なくとも下記2つの要素は知っておく必要があるでしょう。

 

組織の構成員

組織のもつ考え/理念

 

自衛隊の構成員は日本人ということで、ここに異論はないでしょう(ここについて詳しくは後述します)。では、自衛隊という組織がもつ考え/理念はどうでしょうか。

これについても、自衛隊という組織を国防軍と考えた場合、その考え/理念は、日本の国土と国民を守ることに他なりません。これは、他の国も同様です。そのため、考えを取り上げても、自衛隊固有の特徴は出てきません。

(日米安全保障体制を取っているという特徴はありますが、日米安保のややこしい話に入っていく気はないのと、日米安全保障体制というのはあくまで作戦行動上のオペレーションの話として捉えられるため、自衛隊という組織自体の特徴へは影響を与えないものとみなし、ここでは取り上げません)。

 

では、自衛隊という組織をもう少し層別し、陸上/海上/航空自衛隊に分け、それぞれがもつ考えをまとめることで、自衛隊という組織の特徴をあぶり出してみるのはどうでしょうか。

確かにそういうやり方もありますが、それでは残念ながら自衛隊という組織の表面しか見ることができません。

どういうことかというと、自衛隊は設立から約70年程経っていますが、その間、日本は戦争を経験していません(専門用語で言うと防衛出動が発令される事態)。もちろん、全く何もなかったわけではなく、国連平和維持活動(PKO)への参画や、災害時の救援、または復興支援などの非常時対応はあります。しかし、参加したのは自衛隊の一部であるため、自衛隊を総動員するような非常事態ではありません。

つまり、約70年間 平時の状態であったとでいうことです。

 

では、どうやって自衛隊という組織の特徴をあぶり出すか。

人についてよく言われることですが、非常事態にその人の本性が現れます。

自衛隊も人の集合体である組織であり、非常事態、つまり戦争状態になればその特徴があぶり出されるはずです。

ただし、先ほど述べたように自衛隊は70年間、戦争を経験していません。そこで、過去へ遡り、太平洋戦争時の旧日本軍から、組織の特徴をあぶり出し、それを自衛隊という組織へ敷衍することで、自衛隊という組織の特徴をあぶり出したいと思います。

 

ここで、旧日本軍の特徴を自衛隊のもつ組織の特徴と考えてよいかということが問題になります。当然、時代背景が違うため、まったくイコールで考えることはできません。しかし、ある程度の傾向はとらえられるのではないかと思います。

 

なぜかというと、自衛隊前身の警察予備隊設立時に旧日本軍の軍人もかかわっているからです。兵器を扱う近代的な軍隊の様相を呈する組織を作るとなれば、たとえ旧日本軍が日本を壊滅的な状況へと導いた元凶だとしても、すぐ目の前にお手本があるのに、参考にしない手はありません。というか完全にズブの素人集団で組織運営や兵器の運用をするには無理があります。上記のような経緯から、自衛隊には旧日本軍の組織としての特徴の名残が100%ではないにせよ、反映されているはずです。

 

では太平洋戦争という非常事態における、旧日本軍の組織の特徴をあぶり出していきたいと思います。

 

(次回へつづく)

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件②


俗物太郎です。

 2.自衛隊と米軍の比較

前回自衛隊の設立の経緯を説明しました。

では続いて、自衛隊の現在の立ち位置を確認するためにも、どれくらいの保持戦力を持っているのでしょうか?それを調べるため、アメリカの軍事力評価機関「Global Fire Power (GFP)」の2017年のランキングを参考にしてみたいと思います。

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自衛隊とアメリカ軍の保持戦力比較(Global Fire Power 2017を元に加工)


この表からざっくりと下記のことが言えると思います。


①日本は平和憲法を掲げているものの、世界的に見て防衛にかなりお金をかけている
(約5兆円 1ドル112円換算 2017年12月15日時点)
②アメリカ軍の防衛費はケタ外れに高い(約66兆円 日本の13倍)

 

アメリカはトランプ政権になり、アメリカファーストという保護主義に傾きかけているとはいえ、防衛費で見ると、まだまだ世界の警察たらんとするレベルを維持しているといえます。

 

ちなみにGrobal Fire Power 2017年のランキングには載っていませんが、今後軍事力を測る指標として、軍のサイバー人員数や、宇宙開発力(人工衛星の数など)、ドローン兵器数、AIの開発力なども出てくると思います。これからの戦争は、起こるかどうかは別として、人が重火器を操作してドンパチするよりは、テクノロジーを駆使し、まずはサイバー攻撃で相手の力を無力化し、その後無人兵器でピンポイントに人だけを攻撃し、建物の被害はほとんど無いというような、静かなものになっていくような気がします。

 

また、サイバー対応については、軍事面に特化している訳ではありませんが、国際電気通信連合(ITU)が発表しているGCI(Global Cybersecurity index)という指標が参考になります。この指標の2017年版で見るとアメリカは2位で、日本は11位です(ちなみに1位はシンガポール)。やはりアメリカは日本にとっていつも見上げる存在です。

 

今回、自衛隊の保持戦力のデータを見て僕が何を言いたいかというと、後の説明にも関わってくるのですが、日本を保持戦力だけでなく、広い意味でリソーセスという観点でみてみると、世界ではそこそこ上位にいるものの、十分ではないということです。
もっと端的に行ってしまうと、日本は常にリソーセス不足がつきまとっている国であるということです。

 

話は脱線しますが、各国の保持戦力を日本、アメリカ以外も注目してみると、興味深い点がいくつかあります。1つは中国の軍事力です。国力と保持戦力は関係があると言いますが、GFPによると中国の保持戦力は3位、防衛費は世界第2位です(約18兆円)。さらに保持戦力の世界第2位はロシアで、第4位はインドがランクインしています。

 

このことから、保持戦力に加え、経済力も加味して世界を俯瞰してみると、今はアメリカとロシアがかつての冷戦時代の名残で、お互い世界に強い影響力を与えていますが、近年、さらに今後の経済成長を考慮すると、いずれ中国の軍事力がロシアを上回ることは間違いありません。そして、中国に追随してインドの影響力も拡大していくでしょう。

 

つまり、中期的に見ると世界は、アメリカ、中国、ロシアの三つ巴から、インドを加えた四つ巴のパワーバランスで均衡を保っていくことになると思います。
結構話が脱線してしまいましたが、保持戦力の観点から、自衛隊の立ち位置が分かったところで、次回から本題である、組織としての自衛隊の話に入っていきたいと思います。

 

(次回へ続く)