意識高男と俗物太郎、ときどき苦界生(いきる)が行く

海外MBA留学したい、刃牙大好き、ちなみに嫁とはセックスレス

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件13

俗物太郎です。

 

東芝が組織としてPDCAを回すことが出来なかった要因の続きです。

 

②年功上列のシステム

年功上列のシステムの場合、通常社長になるのはその会社で地位を築いてきた人物です。そのため、基本はサラリーマン社長です。

 

東芝の悲劇」では、東芝の下降は1996年ー2000年に社長を務めた、西室泰三氏に端を発するとしています。西室氏は、先回説明したように、もともと営業畑出身で、これまでの東芝の社長がほぼ技術畑の出身だったことを考えると、珍しいことでした。

なぜ営業畑出身の西室氏が社長になったのでしょうか。90年代初期、東芝には重電部門(原子力などのインフラ系)と家電部門という2つの大きな柱がありましたが、市場はある程度成熟しており、大きな伸びが期待出来ませんでした。一方、パソコンに代表されるような情報機器の市場が国内外で伸びており、東芝は情報機器に必要になる半導体に力を入れることになります。

さらに、当時、DVDの企画統一でソニーと争っており、海外のタイムワーナーなど、関係する映画会社と交渉などが必要とされていました。

 

そこで、当時会長だった青井氏(1987年ー1992年に社長)が目をつけたのが、海外営業として電子部品を売りさばき、活躍していた西室氏でした。西室氏は東芝の中でも海外通として知られ、タイムワーナーとの交渉にも当たっていました。

青井氏の「これからは国内人材だけではやっていけない」という強い思いから、西室氏は、当時の東芝としては異例の副社長を経験しないまま社長になるという、抜擢人事で社長になりました。

 

西室氏の社長としての実績について詳細はここでは述べませんが、年功序列のシステムである以上、社長の次は当然、会長になります。

そして、会長の強みとしてあるのは社長に対する人事権です。

 

青井氏による抜擢人事で社長になった西室氏は青井氏を除いて後ろ盾がないため、自分の権力基盤は脆弱です。そのため、自身が社長の人事権を行使する際は、なるべく自分の影響力を保つような力学が働きます。

一方で、先回東芝の中には「名門意識」というコンセプトがあると述べました。この思いは、東芝会長としては、どこに向かうかと言うと、財界の総理である経団連会長に向かいます。

 

経団連会長は、有力企業の会長から選ばれ、かつ任期が4年のため、なるべく自分にお鉢が回ってくるようにするためには、会長職に長く留まる必要があります。

 

つまり、自身の「権力基盤強化」と、「現在の地位への固執」という2つの力学が働き、社長の人選は、当然自身が御し易いタイプを選ぶことになります。

結果、西室氏による東芝院政が敷かれることになります。

東芝の場合、年功上列のシステムによって生み出されたのは、西室氏による院政でした。

 

西室氏を含め、東芝の悲劇を生んだ4代の社長について、元東芝広報室長は「模倣の西室、無能の岡村、野望の西田、無謀の佐々木」と評しています。

この4人によって東芝の美風が損なわれ、成長の芽が摘み取られ、潤沢な資産を失い、零落したと、「東芝の悲劇」は書いています。

 

次回へ続く

 

 

 

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件12

俗物太郎です。

 

先回まで日本組織の失敗事例として、日本軍の失敗を見てきました。

最近の事例として、東芝の問題を取り上げたいと思います。

 

言わずと知れた日本の一流企業である東芝は、2015年の不正会計操作に始まり、アメリカの原子力メーカーの破綻に伴う減損が生じ、赤字を補填するため、東芝メディカルなどを売却し、それでも足りず、ついに最大の稼ぎ頭である東芝メモリを売却せざるを得ない状況まで追い込まれました。

 

しかし、その売却相手はなかなか決まらず、さらに、提携していたアメリカの半導体メーカー ウエスタンデジタルから東芝メモリの株式売却に対する訴訟をおこされたりと、泥沼に陥っていました。

 

ようやく、売却先が米系ファンドのベインキャピタルを含む日米韓連合に決まり、売却利益を織込むと、18年3月期には、売上高が約1兆2,000億円、営業利益が4,700億円と過去最高益を更新する予定であり、回復に転じて来たかに見えます。

 

ただし、実態として、営業利益の9割を稼ぎ出していた半導体事業がなくなってしまうため、今後の成長の柱となるものがなく、前途多難な再スタートになることは間違いありません。

 

さて、では一体なぜ、日本の一流企業である東芝が、虎の子の半導体事業を売る羽目になるほど、坂道を転げ落ちてしまったのでしょうか。

 

詳しくは、大鹿靖明 著の『東芝の悲劇』(幻冬社)を参考頂きたいのですが、ここでは結論を言ってしまいます。

 

東芝の問題は、不正会計をしていたことでもなければ、シャープのように市場環境の激化に伴う競争力の低下でもなく、トップに人材を得ることが出来なかったという組織の問題です。

(東芝の悲劇の著者はこれを「人災」という言葉で表しています。)

 

組織の問題ということであるならば、これまで『失敗の本質』で明らかにして来たように、東芝は組織としてPDCAが回せていなかったと考えられます。

では、東芝が組織としてPDCAを回すことが出来なかった要因を、日本軍の分析をしたときと同じように下記の5つの要因に分けて説明していきたいと思います。

 

精神主義

②年功上列のシステム

③学校秀才の重用

④縦割りの組織

⑤和を大切にする風土

 

精神主義

日本軍の陸海軍がそれぞれ、日露戦争以降から続く、「白兵銃剣主義」と「艦隊決戦主義」のパラダイムから脱することが出来なかったように、東芝のトップである社長はどんなパラダイムに囚われていたのでしょうか。それを紐解いていきたいと思います。

 

東芝はこれまで財界の総理と呼ばれる経団連会長(任期は2期4年が慣例)を2名輩出しています。

(石坂泰三 氏と土光敏夫 氏)

経団連会長のポストについた人は、これまで新旧の経団連含め、現在の会長である日立の中西宏明 氏を入れると14人なので、ほとんど各社1回きりの会長就任の中では、珍しい部類に入ります。

そのため、日本の財界において東芝は、他社に対して特別な存在でした。

また、会社の風土に対し、東芝と似たような業態を持ち、荒々しい人材が多かった日立は、「野武士集団」と呼ばれ、一方、東芝は割とおっとりとした人材が多かったため、「公家集団」などとも呼ばれています。

 

このような、財界での他社に対し、一歩抜きん出た存在であり、かつ、もともと公家集団と呼ばれるような風土であったため、組織のメンバーの中には「名門意識」が根強いていたと考えられます。

特にトップである社長になれば、「名門意識」はさらに強烈になります。

これが東芝の中にあったパラダイムではないかと考えられます。

 

東芝の悲劇」では、東芝の社長を2016年の網川智氏から6代も遡り、当時の東芝としては異例だった技術屋ではなく、営業をバックグラウンドとした西室泰三氏が社長に就任してからおかしくなったということを分析しています。

東芝の問題をテーマにした本はいくつかありますが、大抵、西室氏の2代後の社長である西田氏を戦犯としています。ただし、それでは東芝の問題の根本に行き着かず、さらに深掘りしている「東芝の悲劇」が最も東芝の問題の根本に迫っているのではないかと、僕は考えます)

 

次回へ続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件11

俗物太郎です。

 

先回、日本軍がPDCAを回せていなかった理由である、5要素のうち、ピラミッド構造の頂点に位置する精神主義(陸軍の白兵銃剣主義と海軍の艦隊決戦主義というコンセプト)があることを述べました。

 

今回はそれらのコンセプトを支える下部の要素について書いていきたいと思います。

 

年功序列のシステム

日本軍の人事は年功序列のシステムに基づいており、戦時中においても上を飛び越えるような抜擢人事はありませんでした。これに対し、米軍のミッドウェー作戦時に活躍したスプルーアンスとハルゼーの両提督は、太平洋艦隊司令長官であるニミッツ大将の抜擢人事でした。

 

年功上列というシステムは、能力よりも年次のほうが優先されるため、優秀な若手の登用はなく、組織に変化を起こすダイナミズムが失われます。

 

ただし、最初に述べた陸海軍のコンセプトを貫くという観点に立てば、年功上列は経験がものを言うので、より陸海軍のコンセプトに馴染んだ年次の上の者が、より下のものよりコンセプトを体現していると考えられます。

つまり、能力主義を採用するより、年功上列システムを採用する方が、精神主義をより保持する事ができます。

 

③学校秀才を重用

これは年功上列システムをベースとしながら、昇進させる際の考え方のことを意味しています。

まず、士官になる者は、陸海軍それぞれの士官学校に入学し、その後その中で成績の上位者が陸海軍それぞれの高等教育機関である、陸軍大学校海軍大学校へ進みます。

両校で育成される人材としては、陸軍は高級参謀(高級参謀を経て将官へ)、海軍は将官でした。

さらに、両大学校では、成績によって序列ができ、成績の上位者がその後将官になっていきます。

 

教育内容として、陸軍は戦術を中心とした軍務重視型の教育が行われ、一方、海軍は理数系教育を重視して行われていました。いずれも成績上位者となるのは、理解力、記憶力の良い者でした。

(これは現在の学校教育にも当てはまります。ちなみに、学校成績の優秀なものが官僚になっていくと考えると、日本軍の将官を選定していく考え方と、日本の官僚を選定していくシステムは同じと言えます。つまり、日本軍の将校は官僚のように事務処理能力に長けていたと考えることができます。)

 

日本軍は既存の枠組みの中での最適解を出す能力に長けた者、言い換えると事務処理能力が高い者が、昇進していく仕組みでした。

ただし、既存の枠組みで最適解を出す能力は、戦争中のように環境が目まぐるしく変化し、既存の枠組みが通用しない状態では十分に発揮されません。

また、教育内容についても陸海軍それぞれの白兵銃剣主義、艦隊決戦主義のコンセプトに基づいているため、その中で優秀な成績を収めることはすなわちコンセプトの強化に繋がります。

 

④縦割りの組織

米軍が戦時中、統合参謀本部を作り、大統領をトップとして陸海軍の上位に置くことで、両者の調整を図り、連携して作戦を実行することができました。

一方、日本軍も陸海軍所属のもと大本営を作りましたが、両者の意見を調整するような上部構造はありませんでした。

唯一、その機能を担っていると言えるのは天皇でしたが、作戦内容の是非について判断する権利はなく、大本営から上梓する作戦を承認する機能しか持ち得ませんでした。

そのため、陸海軍で意見が割れた場合、両者の意見が並存するような歪な作戦が実行されることになります。

つまり、元々日本軍には組織間を横串でまとめ上げるという発想がなく、縦割りの組織の中で、上下のライン上で完結し、横からの情報共有をベースに柔軟に判断していく余地がありませんでした。

陸海軍ともどもそれぞれの発想のベースが所属する組織から拡がることはなく、日本軍の作戦の幅は米軍に比べて狭いものになってしまいました。

 

また、先回の記事で少し触れましたが、陸軍と海軍ではそもそも仮想敵国が異なっていました(陸軍:ソ連、海軍:米国)。そのため、太平洋戦争後半のレイテ海戦など、陸海軍の総力戦として臨む場合にも、仮想敵国の違いに基づく考え方の違いから、その能力を十分に発揮できていなかったと考えられます。

 

結局、縦割りの組織の中で陸海軍それぞれのコンセプトは熟成され、より強固になっていくことになります。

 

⑤和を大切にする風土

これは、日本人の美徳としてあげられることが多い要素ですが、こと戦争中のような緊急時、かつ軍隊のような官僚的組織において、大きくマイナスに働くことを理解しておく必要があります。

 

それは科学的合理性に基づく判断よりも、人と人との「間柄」を重視したり、その場の「空気」を重視したりする、情緒的判断が優先されるということです。

これは紹介してきた日本軍の失敗事例の中でも散見されます。

 

例えば、インパール作戦では成功する可能性が低いと誰もが分かっていたにも関わらず、牟田口中将の上司である河辺ビルマ方面軍司令官は、以前の上司と部下という関係もあり、「牟田口の意見を通してやりたい」という情緒的判断を下してしまいます。

また、同じインパール作戦についての会議上では、牟田口中将の熱意に押され、他の将校達は問題点を認識していたものの、それを言い出すことの出来ない「空気」がその場を支配しており、インパール作戦実行を黙認してしまいます。

 

この会議上での「空気」とは、慎重論を唱える事が、すなわち消極的な態度として糾弾されてしまうという状況を意味しています。

 

「間柄」や「空気」が支配的になるということは、責任が曖昧になることに繋がります。

合理的判断に基づいていないということは、因果関係が成り立っていないということであり、作戦が失敗した時の責任を追求することが難しくなります。

つまり日本軍における失敗において、信賞必罰の原則は成り立たず(むしろ信賞に偏重)、評価は、結果ではなく、やる気やプロセスに関してなされます。

 

客観的に見て明らかに間違った作戦であるインパール作戦において、牟田口中将は作戦立案時の熱意を評価され、惨憺たる結果については、司令部から更迭はされたものの、厳しく処罰されることはありませんでした。それどころか、後に陸軍予科士官学校の校長に就任しています。

 

一方、米軍の場合、例えば日本軍の真珠湾攻撃による奇襲を受けて損害を出した責任として、太平洋艦隊司令長官のキンメル大将はその後、軍法会議にかけられ厳しく処分されています。

 

以上、和を大切にする風土は、平時やうまくいっている時は特に問題になりませんが、太平洋戦争においては、合理的判断がなされず(「失敗の本質」 内で言及されていますが、山本七平氏はこれについて「日本軍の最大の特徴は『言葉を奪ったこと』と言い表しています」)、責任の所在が曖昧になってしまいました。

その結果、日本軍は失敗から学ぶ機会を失ってしまったと言えます。

つまり、PDCAでいう、Checkが働かなくなってしまったのです。

 

 再度示しますが、下記の5要素が分かち難くお互いを補完し合い、ガッチリと日本軍の組織の屋台骨になってしまっていたため、PDCAが回せなくなってしまいました。

 

精神主義

②年功上列のシステム

③学校秀才の重用

④縦割りの組織

⑤和を大切にする風土

 

そして、これがまさに日本軍の失敗事例を分析してあぶり出した日本組織の弱みです。

さらに、先述したように環境次第で上手くハマれば、これが強みに変わることもあります。

繰り返すと、上記の5要素は日本組織の強みでもあり、弱みでもあります。

これが、今回のテーマの結論になります。

 

ちなみに強みになる場合は、まさに高度経済成長期の日本に当てはまります。上記の①精神主義を、「高品質な製品を低価格で大量生産する」というコンセプトに置き換えれば、以降の要素をそのまま転用できます。上記コンセプトで日本の製品が世界を席巻し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(ハーバード大 エズラ・ヴォーゲル教授著)と賞賛されるまでになりました。

 

これまで「失敗の本質」を参考に日本軍の失敗事例を紹介し、それを元に日本の組織の特徴を説明してきました。

 

上記著書は、日本軍の失敗に学び、日本の組織が自ら学びながら変革していく自己変革型の組織になる事が必要という提言で締めくくられており、現代の日本の組織に向けて書かれています。

 

「失敗の本質」が刊行されたのは1984年で、刊行時点で戦後40年以上が経過し、1991年に文庫化され、2018年現在においてもなお読み継がれています。

 

このことは、日本の組織が日本軍の失敗から学び、今だに自己変革型組織になっているとは言い難い現状を表しているのではないでしょうか。

 

では次回、直近の日本組織の失敗事例として記憶に新しい東芝の問題について、先に挙げた日本組織の特徴である5要素を踏まえて分析したいと思います。

 

 

 

 

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件⑩

俗物太郎です。

 

4.日本の組織の強みと弱み

 

さて、ここまで「失敗の本質」より太平洋戦争における日本軍の失敗について説明して来ました。

改めてここで、「失敗の本質」に書かれている日本軍が太平洋戦争での失敗事例における、失敗の本質について再度書きたい思います。

 

「日本軍は組織としての学習棄却が出来ていなかった」

 

これをもう少し耳慣れた言葉に直すと、下記になります。

 

「日本軍は組織としてPDCAが回せていなかった」

 

さらにこれを敷衍して今回のテーマ全てにわたる結論も再度示します。

 

「日本の組織はPDCAが回せていない」

 

上記を踏まえ、話を日本軍に戻すと、なぜ日本軍は組織としてPDCAが回せていなかったのでしょうか。

ノモンハン事件から始まるこれまで紹介してきの6つの失敗事例を踏まえると、下記5つの要素に集約されます(ちなみに以下5つの要素は「失敗の本質」を読んで、以降の話も踏まえて僕自身で再構成しました)。

 

精神主義

年功序列のシステム

③学校秀才を重用

④縦割りの組織

⑤和を大切にする風土

 

これらの5つの要因は「①精神主義」を頂点とし、「⑤和を大切にする風土」を土台とするピラミット構造と捉えることができます。

 

これらの要素が日本軍という組織の中で屋台骨として存在し、これがPDCAを回すことを阻害しています。また、この構造は大変強固であるため、組織自体が崩壊するレベルのことが起きない限りは無くなりません。

ただ、上記の5要素について改めて見てみると、日本軍の失敗の要因という文脈がなければ、良い意味で捉えられるものでもあります。

つまり、上記の5要素はその時々の環境に依存していることを表しています。5つの要素がその時の環境とカチッとハマれば、組織としての強さを強化する駆動力となります。逆に環境が合わなければ、全く力を発揮できないばかりか、日本軍の失敗事例に表れているように、むしろマイナスに働いてしまいます。

ここで、結論をさらに押し進めてしまいますが、よく日本の製品に対し、ガラパゴス化と言われますが、これは言葉を変えると、「ある環境に対し過剰に適応してしまったこと」を意味しています。

過剰に適応するということはすなわち、一時隆盛を誇った恐竜が環境変化に耐えられず、絶滅してしまったように、変化に対する脆弱性を内包しているということです。

ということは、上記5要素はある環境に対し、組織として過剰適応するための必要条件と言うことが出来ます。

 

ちょっと結論に向かって説明を急ぎすぎてしまいましたが、元に戻って、これまでの日本軍の失敗事例に照らし合わせて、日本軍がPDCAを回せなかった理由である①~⑤の要素をそれぞれ見て行きたいと思います。

 

精神主義

これは何を意味しているか一言でいうと、「はじめにコンセプトありき」ということです。

これまで述べてきた日本軍の失敗事例における日本軍の性格、作戦の特徴含め全ての底流に流れる最も重要な要素です。

例えば、日本軍の失敗要因の中で所々に現れる要因として「事実を軽視」があります。ノモンハン事件ではソ連軍の大兵力を十分に把握していなかったり、ガダルカナル作戦では第1陣が米軍の圧倒的戦力の前に惨敗を喫したにもかかわらず、戦力の逐次投入しかしませんでした。

 

また、「事実の軽視」は、情報収集の軽視にもつながります。

具体的には、暗号解読やレーダーなどの索敵装備の軽視です。ミッドウェー海戦では、戦闘前に既に日本の暗号は米軍に解読されてしまっていましたし、日本の艦隊は米軍のレーダーによっても先に発見されていました。

ただし、太平洋戦争において、精神主義の一番の問題は、事実よりも精神を上位に置くことで、相手の実力を過小評価してしまうことです。言い換えると相手に対する驕りが出てしまうということです。

 

特にノモンハン事件インパール作戦ガダルカナル作戦などの陸戦において、顕著に表れています。

それぞれの陸戦では作戦立案時に「なんとなく決死の作戦を立てれば、相手に勝ってしまうような楽観論」に支配されていました。

 

例えば、インパール作戦では、補給の観点から失敗の可能性が高いにも関わらず、作戦立案者の牟田口中将は食料に関して、「敵から奪えば良い」や、敵についても「銃を空に向かって3発撃てば敵は降伏するから安心して良い」という趣旨の発言をしており、決死の覚悟で敵と戦えば、勝つに決まっているという思い込みに支配されていました。

 

ちなみに、なぜこのような精神主義が日本軍に根付いていたかは「失敗の本質」で説明されており、日露戦争にまでさかのぼることになります。それは陸軍と海軍でそれぞれ異なったコンセプトととして組織に深く根付いています。

 

陸軍:白兵銃剣主義

海軍:艦隊決戦主義

 

上記のコンセプトが最初に述べた5要素からなるピラミッドの頂点にあり、下部構造に支えられ、揺るがない屋台骨を形成してしまっているのです。

つまり、日本軍は太平洋戦争より40年近く前のコンセプトで米軍と戦っていたのです。

 

では陸海軍それぞれのコンセプトは具体的に日露戦争の何に起因しているのでしょうか。

これらは、それぞれ日露戦争における日本軍の成功体験をベースにしています。

 

陸軍の白兵銃剣主義については、乃木希典大将の実行した肉弾突撃による旅順要塞攻略であり、海軍の艦隊決戦主義については、東郷平八郎元帥がロシアのバルチック艦隊を撃破した成功体験がベースになっています。

これらの成功体験が、陸海軍の戦闘におけるコンセプトとして「綱領」に落とし込まれ、年月を経て聖典となり、乃木大将や東郷元帥はそれらを体現した英雄として祭り上げられます。

それぞれのコンセプトは陸海軍の作戦から、それぞれの兵器の設計思想にまで落とし込まれています。

 

例えば、海軍の艦隊決戦主義でいうと、レイテ海戦におけるレイテ湾突入前の栗田艦隊の謎の反転も、実際には敵艦隊がいなかったものの、艦隊決戦を優先した結果と言えます。

また、海軍の兵器についても当時のリソーセスがなかったこともありますが、どちらかというと防御より、攻撃力重視の設計になっています(ミッドウェー海戦時に日本の空母は敵の攻撃で簡単に炎上し、航行不能になってしまいましたし、敵に恐れられた零戦も防御力については殆ど無いに等しい設計でした)。

繰り返しますが、日本軍の全ての失敗の大元は、これらのコンセプトから脱却出来なかったためです。

 

ちなみに、陸海軍のコンセプトの違いに加え、両者が想定していた敵もそれぞれ異なっていました。

もともと海軍は米国を仮想敵国と想定していましたが、陸軍の仮想敵国はソ連でした。しかも、戦闘は大平野で戦うことを前提としていました。そのため、ガダルカナル作戦やインパール作戦のようにジャングルで戦うことについて想定していませんでした。

 

以降、これらのコンセプトを支える下部構造について説明して行きます。

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件⑨

俗物太郎です。

 

沖縄戦

いよいよ太平洋戦争の終盤である沖縄戦になりました。

この沖縄戦は既に米軍が沖縄に上陸してしまったところからスタートします。

この戦いは日本軍第32軍  約86,400名と米軍238,700名との沖縄での戦いのことを言います。

戦死者は日本側 将兵65,000名、住民約100,000名、米国側 将兵12,281名という凄惨な結果となりました。

 

沖縄戦は太平洋戦争の終局でもあり、日本軍組織上のまずさが全て集約されているといっても過言ではありません。

沖縄戦で失敗した要因を下記に示します。

 

・現場感のない机上の作戦だった

大本営と現地のコミュニケーションギャップを双方が解消しようとしなかった

 

まず1つ目ですが、日本軍の大本営は米軍の沖縄上陸を、米軍を叩くチャンスにしようと考えていました。そのため、沖縄の航空基地を確保し、航空機によって上陸中の米軍を攻撃し、甚大な被害を与えようと考えていました。これには天号作戦という名前がつけられています。

 

しかし、実際は沖縄戦の前にあった九州沖航空戦で多くの海軍所有の航空機が失われており、陸軍所有の第六航空軍の配備が大幅に遅れたことも重なり、実働できる航空機は陸海軍合わせて、420機程でした。

結局、米軍の沖縄上陸時に大した打撃を与えることが出来ず、米軍はほぼ無傷で上陸することになります。

さらに、大本営が天号作戦実行のため利用しようと考えていた、沖縄の北・中飛行場も米軍上陸後1日で抑えられてしまいます。このことは大本営に少なからぬ衝撃を与えました。

大本営は沖縄に米軍の大兵力が上陸した後も、この飛行場を利用した航空作戦にこだわり、実働部隊の第32軍に何度も北・中飛行場奪還を催促します。

これまで述べてきた日本軍の失敗事例のうち、特に陸上での戦い(ノモンハン作戦、インパール作戦ガダルカナル作戦)では、大本営が現地をほとんど見ることなく判断をしてしまい、現地の混乱に加え、多大な損害を出してしまっていました。

沖縄戦でもまさに同じような状況が起こっており、これが2つ目の要因にも繋がりますが、現地司令部の大本営に対する強い不信感に繋がります。

 

2つ目の大本営と現地のコミュニケーションギャップを双方が解消しようとしなかったとはどういうことでしょうか。

これはそもそも大本営と現地でまず考え方のギャップが存在しているところから始まります。

大本営は上記に述べたように、飛行場を活用した航空決戦を望んでいました。

一方、現地の牛島中将率いる第32軍は、現有戦力を踏まえると、持久戦に持ち込まざるを得ないと考えていました。

この考えの違いが、そもそものコミュニケーションギャップの根元にありました。

さらに、沖縄戦に至るまでにもコミュニケーションギャップを深める事象が起きていました。

まず、戦局の悪化に伴い大本営は部隊編成の見直しを検討し始めます。そして、大本営から沖縄の現地部隊に対し、フィリピンに部隊を送るよう要請が来ます。これを決める会議が台北で開催されました。

現地は持久戦を考えていたため、これ以上部隊を減らされると困るので、部隊派遣が出来ない旨の意見書を書き、台北に参集された八原参謀も上司の長少将指示のもと、会議中は意見書のみを提出し、あとは沈黙を貫きます。この意見書と沈黙を貫く八原参謀の態度によって会議ではまともな議論が出来ず、大本営と現地の間に不信感が生まれ、以降のコミュニケーションを阻害する下地ができてしまいました。

 

しかし、程なくして再度大本営より兵力、しかも精鋭部隊を送るよう要請が来て、結局精鋭の第9師団を送ることになりました。

ただし、これについては大本営も後から沖縄の部隊の補充について検討し、姫路の第84師団を送ることを一旦決めるのですが、直前になり、後に起きるであろう日本の本土決戦に備えるという理由から、第84師団の派遣は中止されてしまいます。

以上のような経緯があり、現地は大本営の指令を無視し、独断で持久戦に突入することになります。

この時点で、大本営は軍という組織において、現地の統帥が出来ていませんし、現地も大本営への不信感はあれど、軍という組織の中にいる以上、それを無視した独断をしているので、日本軍が組織として崩壊してしまっています。

結果的に、双方の間のコミュニケーションギャップを埋まらないまま、米軍は上陸を果たしてしまいました。

 

まとめると、現場を見ない大本営と、大本営を無視する現場という構図になってしまい、もはや日本軍が組織としての機能を失ってしまっていたのが沖縄戦でした。

他国と戦闘する軍が組織としての機能を失ってしまった段階で、既に日本は戦争に負けたと言えます。

その後、米軍の本土攻撃が始まって行きますが、日本国民の一方的な虐殺でした。

このことから日本軍は負けることにも失敗したと言えるかもしれません。

 

次はこれまでの日本軍の失敗事例を踏まえ、日本の組織としての強みと弱みを示したいと思います。

 

 

 

 

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件⑧

俗物太郎です。

 

⑤レイテ海戦

レイテ海戦は敗戦が濃厚になった日本のが持てる総力(戦艦、航空機)を挙げて戦った海戦であり、歴史上でも最大の海戦と言われています。

 

この海戦の目的は、着々と日本の本土を目指して北上してくる米軍に対し、フィリピンでこれを向かいうち、南方からの補給路確保と、米軍の本土上陸を食い止めることです。もし米軍にフィリピンを取られてしまえば、日本は南方からの補給ルートも分断され、本土上陸も時間の問題となり、日本の敗北が決定的になってしまいます。

 

そのため、日本軍はフィリピン海域のレイテ湾に突入し、米軍の水上部隊と上陸部隊、輸送船団を殲滅することを目的とした捷一号作戦という陸軍海軍合同の統合的な作戦を立案しました。

 

捷一号作戦は4つの艦隊(栗田、小沢、志摩、三輪の各艦隊長官)で編成され、戦艦9、空母4、重巡洋艦13、軽巡洋艦6、駆逐艦31の計63艦(これは当時の連合艦隊の戦力の8割に相当)に加え、潜水艦12隻、航空機716機(陸海軍機合計)という、大規模なものでした。

結局、この決戦が日本海軍が総力を挙げて戦った最後の決戦になりました。

 

レイテ海戦で実行された捷一号作戦が失敗した要因を下記に示します。

 

・戦力前提の崩壊、異常を前提としていた

・作戦目的が曖昧で実働部隊へ目的を徹底できていなかった

・通信能力が大幅に低下していた

 

では1つ目から見ていきましょう。まず戦力の前提が崩壊しているということはどういうことか。

この捷一号作戦は陸海軍の統合的な作戦であり、そのために航空機と艦隊の総力を挙げてそれぞれで米軍を攻撃することを前提にしています。

ただし、このレイテ海戦が始まる前に既に多くの航空機が米軍によって破壊されていました。

まず、レイテ海戦の前のマリアナ海戦で既に400機以上の失っており、さらに、フィリピン、沖縄、台湾に対する米軍の空襲により、合計700機以上を失ってしまいました。

日本軍はこのレイテ海戦で陸軍1,700機、海軍1,300機、合計3,000機の航空機で戦うことを見積っていましたが、作戦実行前に約1/4以上を失っていました。また、優秀なパイロットもミッドウェー海戦以降失っており、そもそもパイロットは育成に時間がかかるし、さらに優秀なパイロットとなるとさらに実践を経て経験を積んでいく必要があるため、航空機の損害以上に、パイロットの損失の方が大きいと言えるかもしれません。

 

またもう1つの異常を前提とした作戦というのはどういうものかというと、レイテ海戦に参戦する4つの艦隊のうち1つの艦隊(小沢艦隊)を全滅覚悟で囮として活用し、残りの艦隊で米軍を叩くということです。

上記の作戦会はフィリピンのマニラで行われましたが、会議上で、司令部参謀である神重徳大佐の発言としては、「フィリピンを米軍に取られてしまえば、南からの補給路が断たれ、連合艦隊も維持できなくなるため、この作戦で連合艦隊をすり潰しても構わないとの豊田司令長官のご意向である」と発言していることからも分かるように、既に玉砕覚悟の異常性が作戦に包含されていました。

つまり捷一号作戦は1/4の航空機が失われているという戦力の前提が崩壊し、かつ玉砕覚悟の異常性も包含しており、作戦の体をなしているとは言い難い作戦でした。

 

2つ目の作戦目的が曖昧で、実働部隊へ徹底できていなかったとはどういうことか。

ここでは、作戦を立案する艦隊司令部と、その実働部隊と2つに分けて考えます。

まず、艦隊司令部は先に述べたように、フィリピンを取られてしまえば日本は最期という危機感があったため、フィリピン上陸部隊を殲滅させなければならず、そのために、レイテ湾に突入しなければならないと考えていました。

そのために小沢中将率いる小沢艦隊を囮にし、レイテ湾を守っている米艦隊をレイテ湾から切り離すことで、日本の他艦隊がレイテ湾に突入しやすい状態を作ろうとしていたのです。

しかし、実際には残念ながらレイテ湾突入は実行されませんでした。

それは何故か。ここで実働部隊である栗田中将率いる栗田艦隊に視点を移したいと思います。

この栗田艦隊はのちにレイテ湾の直前で「謎の反転」と言われる反転行動を取ることになります。

では栗田中将はレイテ湾に突入し、米軍の上陸部隊や輸送船団を叩くということを理解していなかったのでしょうか?

いえ、そんなことはありません。先のマニラでの作戦会議上で司令部から作戦は伝えています。

ただ、栗田艦隊司令部の参謀である小沢少将は、司令部の神大佐に念を押すように一点確認しています。

それは、レイテ湾突入前に、もし敵主力艦隊と遭遇した場合には、栗田艦隊はそちらを優先するということです。これに対し、神大佐は「差し支えありません」と了承しています。

これが実は、レイテ海戦最大の山場での、謎の反転に繋がる最終判断の根拠となっています。

しかし、実際は小沢艦隊の囮作戦が功を奏し、レイテ湾付近に敵主力艦隊はおらず、レイテ湾入り口はガラ空きの状態でした。小沢艦隊は主力艦隊が近くにいると誤認し、反転をしてしまったのです。

ちなみに、歴史にもしもはありませんが、もし小沢艦隊がレイテ湾に突入していたらどうなっていたでしょうか。

実はレイテ湾内に停泊していた輸送船団の中には、後にGHQのトップになるマッカーサー大将がいたのです。マッカーサーは後の回想で「この時、勝利は栗田中将の手の中に転がり込もうとしていた」

と振り返っています。

ここで栗田艦隊が反転せずにレイテ湾に突入し、マッカーサー含めて輸送船団を叩いていたら、敗戦色濃厚だった日本の戦況が一変したかもしれません。

 

元に戻りますが、実際は司令部のレイテ湾に突入し、米軍の部隊を殲滅するという目的が明確ではなかったため、実働部隊の栗田中将に徹底させることが出来ませんでした。

 

この作戦目的の不明確さと実働部隊への不徹底というのは、ミッドウェー海戦時にも司令部の山本長官と実働部隊の南雲艦隊との関係という形で同じように現れていました。

 

結局、戦闘中では状況が混迷を極めていく中で、判断を積み重ねていく必要があります。

この時、作戦目的の達成のためには、いかに作戦目的を深く理解しているかにかかっていると言えます。それによって、大小含め最終的な判断ミスの数が変わってきます。

後に再度述べますが、日本海軍はDNAレベルで日本海軍の本分は艦隊決戦で相手を真正面から叩くことであると考えており、栗田中将は最終的にはこの考えに沿って行動することが正しいと判断したと推察されます。

 

3つめの通信能力の低下というのは、どういうことでしょうか。

それは、司令部の通信員が乗っていた栗田艦隊の旗艦である重巡洋艦愛宕」(艦隊側は旗艦を「大和」にすることを要望していましたが、足回りの観点から、戦艦よりも足回りの良い重巡洋艦の「愛宕」に変更されました)が米潜水艦によって被弾してしまい、通信員の相当数が被弾した愛宕を守る駆逐艦に乗り換えさせられ、そのまま補給基地へ戻ってしまい、通信員が足りなくなってしまったことです。

通信員の欠員は「大和」から補充されましたが、旗艦は「愛宕」だったため、旗艦としての通信に慣れておらず、かつ通信員間での連絡も不十分でした。

これらの要因が、先程述べた栗田艦隊の謎の反転に繋がっています。

 

レイテ海戦についてまとめたいと思います。

レイテ海戦で実行された捷一号作戦は、小沢艦隊を囮として使うというトリッキーな要素をもともと含んでおり、これは4つの艦隊が高度に連携を取らなければならないことを意味します。

 

しかし、実際は作戦実行前に、既に航空機が大量に破壊され、戦力の前提が崩壊しており、かつ、作戦目的が深いレベルで実働部隊の栗田艦隊に伝わっておらず、また艦隊の連携をする上で、神経系の役割を果たす、通信能力が大幅に低下しているという状態でした。

 

先に述べたように、捷一号作戦は連合艦隊をすり潰すという玉砕覚悟の異常を前提とした作戦の体をなしていない作戦であり、かつ実働部隊へ目的が深く徹底されておらず、連携を取るための通信も不十分という、ダメの上塗りになってしまっていました。

後付けにはなりますが、これはまさに失敗すべくして失敗した作戦と言えます。

「失敗の本質」の文中での言葉を借りると、この捷一号作戦は「高度な平凡性」が欠如していました。

 

次回でようやく最後の失敗事例である沖縄戦について書きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件⑦

俗物太郎です。

 

ガダルカナル作戦

 

ガダルカナル作戦の失敗はミッドウェー作戦と並び、太平洋戦争における日本のターニングポイントです。海戦のターンニングポイントをミッドウェー作戦とするならば、陸戦のターニングポイントがガダルカナル作戦になります。

 

ではガダルカナル作戦とはどんな作戦だったか。

真珠湾攻撃の成功によって勢い付いた日本海軍は日本の南のオーストラリアへの侵攻も考えました。その際、航空機の補給などを行う中間地点が必要であり、その目的で陸軍の力をかり、ガダルカナル島に空港を建設しようとしていました。

一方、米国海軍は戦争の最終的な目的を日本の本土侵攻に定めたため、その足がかりとして、日本に続く島々の1つであり、日本が空港を建設しようとしてたガダルカナル島を陥落させることが重要だと考えていました。

しかし、日本軍は米軍のガダルカナル侵攻を戦争終結に向けた足がかりだとは思わず、偵察程度に捉えていました。その為、日本軍が集めた兵力は約2,000人程で、その兵力で奪還しようしたのがガダルカナル作戦です(正しくいうと2,000人で攻略しようとしたあとに、2回兵力を大幅に増員した上で総攻撃を行なっており、それらも含んだ敗北をガダルカナル作戦と呼んでおります)。

実際、その時ガダルカナル島にいた米軍は日本の兵力の約6倍の13,000人でした。そのため、日本の第一陣はその圧倒的な戦力差でやられてしまいます。

またこの時米軍は、日本軍に対する新たな戦法として、水陸両用作戦というものを開発していました。それに対する日本軍の島における戦法は従来通りの白兵戦を主体としたものでした。

このため、日本軍は第2陣を投入しようにも上陸前に米軍の航空機から攻撃を受け、重火器や食料の大半を失ってしまいました。

なんとか上陸できた第2陣も米軍に対しては、少ない重火器に、白兵戦をベースとした戦法だったため、これも一方的にやられてしまいます。しかも、一気に攻め込むのではなく、これは連携が困難だったこともありますが、部隊毎の攻撃になってしまったため、戦力が集中せず、敵にとっては攻めやすい状態になってしまいました。このことがよく戦いの中で悪手の事例として言われる、戦力の逐次投入です。

 

ガダルカナル作戦が失敗した要因は、主に下記3つになります。

 

・戦略グランドデザインの欠如と作戦の成否は実働部隊任せ(どうしたいのかがない)

・事実の軽視による戦闘フィードバックがなされていない(どうなっているか分からない)

・陸海軍の縦割りの組織体制によるリソーセスの活用不足(力を活かしきれていない)

 

1つ目は上述したように、米軍がガダルカナル島を足がかりに、ゆくゆくは日本で本土決戦をしようと考えていたのに対し、日本はそもそも海軍と陸軍で目指す方向が異なっておりました。

陸軍は中国を完全に侵略し、大陸において確固たる拠点を築くことを目指しており、一方海軍は艦隊決戦における米軍の各個撃破していくことを目指していました。

そのため、このガダルカナル島での飛行場奪還について、日本軍はさしたる重要性を感じておらず、場当たり的な対応になり、先述した戦力の逐次投入が行われてしまいました。

また作戦についても十分に練られないまま現場の指揮官任せになっていました。

 

2つ目は、米軍の水陸両用作戦という新たな戦法により、米軍が島々を1つずつ攻略しながら、日本本土に近づいて来ているのに対し、日本はその変化にも気付かず、対応ができていませんでした。

さらに作戦司令部も現地で起きている悲惨な状況を見ようとしなかったため、圧倒的に劣勢な状況にもかかわらず、現場からのフィードバックが十分になされず、歩兵による攻撃をズルズルと続けていました。

 

3つ目は、そもそも米軍が統合作戦本部によって陸海軍を連携させながら作戦を作っていったのに対し、日本は統合作戦本部にあたるものがなかったため、陸軍、海軍の意見がまとまることがなく、それぞれがそれぞれの思惑によって戦争を行なっていました。

そのため、ガダルカナル作戦においては、例えば補給の観点でいうと、艦艇による補給物資運搬はなされたものの、他の艦による護衛はほとんどなく、あったとしても連続飛行距離ギリギリの超超遠距離からやってきている零戦に頼っていました(実際零戦ガダルカナル島上空で戦えていたのは15分程だったようです。余談ですが小説の「永遠の0」でもこの事は言及されていました)。

このような点からも陸海軍が十分に連携できていませんでした。

 

上記3つを合わせると、ガダルカナル作戦において、日本軍はどうしたいかというグランドデザインがなく、なにがおきているかも分からず、力も十分に活かしきれていなかったため、負けるべくして負けてしまったと言えます。

 

ガダルカナル作戦以降は、皆さんもご存知のように、アメリカ軍は島々を次々に制覇しながら日本に近づき、最終的には沖縄に上陸することになります。

 

次回は⑤レイテ海戦について説明したいと思います。