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自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件15(完)

俗物太郎です。

 

東芝が組織としてPDCAが回せていない要因の続きです。

 

④縦割り組織

東芝は今では特に珍しくはありませんが、西室氏の時にいわゆる事業部制(社内カンパニー制度)を取っており、家電事業、原子力事業などの事業部に分け、各カンパニーに投資判断などの権限を委譲しました。

一方、各カンパニーの本社に対する遠心力を抑えるため、本社側が投資資本利益率などの指標を元に監査するという対応を取っていました。

 

ただし、実態として、本社の監査機能をもつ経営支援室は、ゆくゆく各カンパニーのトップへ上がるためのキャリアパスの場となっており、カンパニーにトップに対して強く言えないなど、監査機能が形骸化してしまい、カンパニーの遠心力を抑えるには至りませんでした。

結果、カンパニー内の会計がブラックボックスとなってしまい、粉飾会計につながっていく遠因となってしまったようです。

 

また、東芝半導体から原子力という、投資のライフサイクルが全く異なる事業を抱えており、事業部間でのシナジー効果が生まれにくい状態でした。

縦割りの組織構造は、意思決定は早くなるものの、横串を指すような仕組みがない限り、シナジー効果が生まれにくく、かつ本社機能に対する遠心力が働くため、それが悪い方向にいった場合、組織の中に日本軍でいう関東軍を作り出してしまい、組織がアンコントローラブルな状態に陥ってしまいます。

 

⑤和を大切にする

これは今回の文脈では科学的合理的な判断よりも、その場の空気や人と人との間柄を重視するような判断が重視される場合があるということを表しています。

 

東芝の場合、後に経営破綻することになる米原子力メーカーのウエスチングハウス買収における投資判断や、台湾メーカーを利用した利益のかさ上げによる粉飾会計をずるずると続けてきたことで、経営危機に陥りました。

これらはトップの合理的ではない判断によるものであり、和を大切にするという価値観の負の側面が表出したもの考えられます。

具体的にどういうことかというと、ウェスチングハウス買収を決めた当時の社長の西田氏は、自分の経歴に色をつけるためのスタンドプレーという側面に加え、自分を社長へ引き上げてくれた西室氏が買収推進派だったため、その気持ち忖度した判断である可能性が高いです。

また利益のかさ上げによる粉飾会計は、歴代社長の目先の利益の追求によるところが大きな原因ですが、公家集団と呼ばれるくらい温和な社員が、突っ走るトップの暴走を許してしまったことも少なからず原因になっているとも言えます。

これらは本来日本人の美徳とされる和を大切にする価値観の負の側面と言えます。

 

以上、日本組織がPDCAを回せていない5つの要因について、東芝の失敗事例を当てはめてみましたが、見事に当てはまっていることが分かると思います。

 

改めて日本の組織がPDCAを回せていない要因と東芝の事例を下記に示します。

精神主義東芝の事例 名門意識)

年功序列のシステム (東芝の事例 会長による院政

③学歴主義 (東芝の事例 トップのほとんどが東大卒)

④縦割りの組織 (東芝の事例 社内カンパニー制

⑤和を大切にする(東芝の事例  現社長の前社長への忖度、温和な公家集団と言われる社員)

 

上記は①の精神主義を上位構造とし、以下の下部構造それぞれが分かちがたくがっちりと結びついて強固なピラミッドを形成しています。

そのため、外部環境と組織の方向性があっている時は、組織として非常に強い力を発揮しますが、そうでない時には、なかなか変化ができない、つまりPDCAが回せないという欠点があります。これは日本の組織の宿痾かもしれません。

 

現在はテクノロジーの進化により、非連続的な変化がそこらじゅうで起こっています。そのため、組織はそれに合わせて変化していかなければ、生き残っていけません。

それはどういうことかというと、今の日本を取り巻く環境は日本の組織にとって非常に厳しい環境ということです。

日本の組織を少しでも柔軟にしていくためには、意図的に組織内にダイナミズムが生まれるようにしなければなりません。

そのためには、あえて組織の中に異分子を入れ、カオティックな状態を作り出すなどの、構造改革が必要です(ダイバーシティの重要性はまさにこれです)。

ただし、上記に述べたように、日本の組織は変化に弱いため、自発的に組織が変わっていくことは、一部の組織を除いて期待できないと考えた方が良いと思います。

 

一方、日本はこれまでシンゴジラでのラストで主人公が言っていたように、スクラップ&ビルドで発展してきました。そのため、一度外部からめちゃくちゃに壊されると、日本の組織の強みを発揮し、一致団結して復興するパワーを持っています。

ただし、そのようなカタストロフィをトリガーに日本の組織が変化する未来よりは、組織が変化しないまま緩やかに衰退ルートを進んでいくことを考える方が現実的です。

とはいえ、個人としてとりまく環境変化に対応していかないと、自分はもちろん、子供や孫がもろに衰退の割りを食うことになります。

 

私達が出来ることは、まず自分が組織に所属していた場合、その組織が環境変化に対応しているのか、それとも構造改革することなく、衰退ルートに乗っているのかを冷静に見極め、対応していくことです。

 

これまで述べてきた、日本軍の失敗(『失敗の本質』戸部良一、他)や東芝の失敗(『東芝の悲劇』大鹿靖明)は、日本の組織の弱みである、PDCAが回せていないということが、普遍的なものであり、今日に至っても、全く解決できていないということを、はっきり私達に教えてくれます。

私達はこの事実を真摯に受け止めなければならないと考えます。

 

以上

 

 

 

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件14

俗物太郎です。

 

日本の組織の弱みとしてPDCAが回せていないということを示す、東芝の事例の続きです。

 

③学校秀才の重用

では東芝の歴代の社長の学歴を見てみましょう。

 

初代 1939ー1943 山口喜三郎 ジョンズ・ホプキンス大

2代  1943ー1947 津守豊治 東京高商(現 一橋大)卒

3代  1947ー1949 新開廣作 不明

4代  1949ー1957 石坂泰三  東京帝国大法学部卒

5代  1957ー1965 岩下文雄  東京帝国大政治学

6代  1965ー1972 土光敏夫  東京高等工業学校機械科(現 東工大)卒

7代  1972ー1976 玉置敬三  東京帝国大法学部卒

8代  1976ー1980 岩田弐夫  東京大法学部卒

9代  1980ー1986 佐波正一  東京大工学部卒

10代 1986ー1987 渡里杉一郎 東京大経済学部卒

11代 1987ー1992 青井舒一  東京大工学部卒

12代 1992ー1996 佐藤文夫  東京大工学部卒

13代 1996ー2000 西室泰三  慶応大経済学部卒

14代 2000ー2005 岡村正      東京大法学部卒

15代 2005ー2009 西田厚聰  東京大 大学院法学政治学研究科卒

16代 2009ー2013 佐々木則夫 早稲田大理工学部

17代 2013ー2015 田中久雄   神戸商科大商経学部卒

18代 2016ー         綱川智       東京大教養学部

 

これを見てみると歴代18代社長の内11人がが東大卒です。また、東大卒以外も一流大学で、基本的には勉強のできる学校秀才がトップになっていることが分かります。

 

ここで一旦日本の教育について触れると、基本的に日本の教育は、欧米のように自分で考えて自分の意見を述べるという「発信」を重視した教育に対し、既にある知識をいかに効率よく学ぶかという「吸収」、言い換えると「欧米の知識をキャッチアップ」することを重視しています。

この考え方は、明治から今に至るまで基本的には変わっておらず、これまで述べてきた日本軍においても同じでした。

キャッチアップ型の教育に必要とされると力としては、発信力や、ディベート力ではなく、暗記力や理解力が大事で、テストではいかに早く正解にたどり着くかが試されます。

ここでは、日本の教育の是非を議論するのが目的ではありませんが、上記のようななかで優秀とされる人材、いわゆる学校秀才は事務処理能力や調整力に優れた、官僚向きの人材になります。

 

では、東芝の話に戻りますが、これまでの日本経済における正解とは何でしょうか?

それは、「日本経済が右肩上がりになっていることを前提として、前年よりも売上を上げて利益を増やすこと」です。つまり会社として規模を拡大(シェアの拡大)していくことが正解でした。

 

ただし、学校秀才は正解に向かって最短距離で進んでいくことは得意ですが、その正解自体を疑うということには慣れていません。

 

東芝の場合、日本経済の成長が鈍化し、中国や韓国メーカーの台頭といったこれまでの前提が崩れていく中で、経営者が組織や事業の抜本的な構造改革をするのではなく、短期的な利益の追求に固執してしまったため、結果、会計を粉飾することに手を染めてしまいました。

 

学校秀才を重用することは、組織の力学がこれまでの正解を墨守する方向に働くため、変化の激しい時代において、組織の硬直性を強め、PDCAを回しづらくしてしまうのです。

 

これは、僕の推測に過ぎませんが、東芝は前に述べたように根底に「名門意識」が根付いているため、名門=東大というような、より学校秀才の経営者を産み出すような見えない力学が働いていたのかもしれません。

 

言い換えると、東芝にある「名門意識」は、経営者を学校秀才にしやすく、その結果、組織としての硬直性をより強化する方向に働いたと考えられます。

 

(次回へ続く)

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件13

俗物太郎です。

 

東芝が組織としてPDCAを回すことが出来なかった要因の続きです。

 

②年功上列のシステム

年功上列のシステムの場合、通常社長になるのはその会社で地位を築いてきた人物です。そのため、基本はサラリーマン社長です。

 

東芝の悲劇」では、東芝の下降は1996年ー2000年に社長を務めた、西室泰三氏に端を発するとしています。西室氏は、先回説明したように、もともと営業畑出身で、これまでの東芝の社長がほぼ技術畑の出身だったことを考えると、珍しいことでした。

なぜ営業畑出身の西室氏が社長になったのでしょうか。90年代初期、東芝には重電部門(原子力などのインフラ系)と家電部門という2つの大きな柱がありましたが、市場はある程度成熟しており、大きな伸びが期待出来ませんでした。一方、パソコンに代表されるような情報機器の市場が国内外で伸びており、東芝は情報機器に必要になる半導体に力を入れることになります。

さらに、当時、DVDの企画統一でソニーと争っており、海外のタイムワーナーなど、関係する映画会社と交渉などが必要とされていました。

 

そこで、当時会長だった青井氏(1987年ー1992年に社長)が目をつけたのが、海外営業として電子部品を売りさばき、活躍していた西室氏でした。西室氏は東芝の中でも海外通として知られ、タイムワーナーとの交渉にも当たっていました。

青井氏の「これからは国内人材だけではやっていけない」という強い思いから、西室氏は、当時の東芝としては異例の副社長を経験しないまま社長になるという、抜擢人事で社長になりました。

 

西室氏の社長としての実績について詳細はここでは述べませんが、年功序列のシステムである以上、社長の次は当然、会長になります。

そして、会長の強みとしてあるのは社長に対する人事権です。

 

青井氏による抜擢人事で社長になった西室氏は青井氏を除いて後ろ盾がないため、自分の権力基盤は脆弱です。そのため、自身が社長の人事権を行使する際は、なるべく自分の影響力を保つような力学が働きます。

一方で、先回東芝の中には「名門意識」というコンセプトがあると述べました。この思いは、東芝会長としては、どこに向かうかと言うと、財界の総理である経団連会長に向かいます。

 

経団連会長は、有力企業の会長から選ばれ、かつ任期が4年のため、なるべく自分にお鉢が回ってくるようにするためには、会長職に長く留まる必要があります。

 

つまり、自身の「権力基盤強化」と、「現在の地位への固執」という2つの力学が働き、社長の人選は、当然自身が御し易いタイプを選ぶことになります。

結果、西室氏による東芝院政が敷かれることになります。

東芝の場合、年功上列のシステムによって生み出されたのは、西室氏による院政でした。

 

西室氏を含め、東芝の悲劇を生んだ4代の社長について、元東芝広報室長は「模倣の西室、無能の岡村、野望の西田、無謀の佐々木」と評しています。

この4人によって東芝の美風が損なわれ、成長の芽が摘み取られ、潤沢な資産を失い、零落したと、「東芝の悲劇」は書いています。

 

次回へ続く

 

 

 

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件12

俗物太郎です。

 

先回まで日本組織の失敗事例として、日本軍の失敗を見てきました。

最近の事例として、東芝の問題を取り上げたいと思います。

 

言わずと知れた日本の一流企業である東芝は、2015年の不正会計操作に始まり、アメリカの原子力メーカーの破綻に伴う減損が生じ、赤字を補填するため、東芝メディカルなどを売却し、それでも足りず、ついに最大の稼ぎ頭である東芝メモリを売却せざるを得ない状況まで追い込まれました。

 

しかし、その売却相手はなかなか決まらず、さらに、提携していたアメリカの半導体メーカー ウエスタンデジタルから東芝メモリの株式売却に対する訴訟をおこされたりと、泥沼に陥っていました。

 

ようやく、売却先が米系ファンドのベインキャピタルを含む日米韓連合に決まり、売却利益を織込むと、18年3月期には、売上高が約1兆2,000億円、営業利益が4,700億円と過去最高益を更新する予定であり、回復に転じて来たかに見えます。

 

ただし、実態として、営業利益の9割を稼ぎ出していた半導体事業がなくなってしまうため、今後の成長の柱となるものがなく、前途多難な再スタートになることは間違いありません。

 

さて、では一体なぜ、日本の一流企業である東芝が、虎の子の半導体事業を売る羽目になるほど、坂道を転げ落ちてしまったのでしょうか。

 

詳しくは、大鹿靖明 著の『東芝の悲劇』(幻冬社)を参考頂きたいのですが、ここでは結論を言ってしまいます。

 

東芝の問題は、不正会計をしていたことでもなければ、シャープのように市場環境の激化に伴う競争力の低下でもなく、トップに人材を得ることが出来なかったという組織の問題です。

(東芝の悲劇の著者はこれを「人災」という言葉で表しています。)

 

組織の問題ということであるならば、これまで『失敗の本質』で明らかにして来たように、東芝は組織としてPDCAが回せていなかったと考えられます。

では、東芝が組織としてPDCAを回すことが出来なかった要因を、日本軍の分析をしたときと同じように下記の5つの要因に分けて説明していきたいと思います。

 

精神主義

②年功上列のシステム

③学校秀才の重用

④縦割りの組織

⑤和を大切にする風土

 

精神主義

日本軍の陸海軍がそれぞれ、日露戦争以降から続く、「白兵銃剣主義」と「艦隊決戦主義」のパラダイムから脱することが出来なかったように、東芝のトップである社長はどんなパラダイムに囚われていたのでしょうか。それを紐解いていきたいと思います。

 

東芝はこれまで財界の総理と呼ばれる経団連会長(任期は2期4年が慣例)を2名輩出しています。

(石坂泰三 氏と土光敏夫 氏)

経団連会長のポストについた人は、これまで新旧の経団連含め、現在の会長である日立の中西宏明 氏を入れると14人なので、ほとんど各社1回きりの会長就任の中では、珍しい部類に入ります。

そのため、日本の財界において東芝は、他社に対して特別な存在でした。

また、会社の風土に対し、東芝と似たような業態を持ち、荒々しい人材が多かった日立は、「野武士集団」と呼ばれ、一方、東芝は割とおっとりとした人材が多かったため、「公家集団」などとも呼ばれています。

 

このような、財界での他社に対し、一歩抜きん出た存在であり、かつ、もともと公家集団と呼ばれるような風土であったため、組織のメンバーの中には「名門意識」が根強いていたと考えられます。

特にトップである社長になれば、「名門意識」はさらに強烈になります。

これが東芝の中にあったパラダイムではないかと考えられます。

 

東芝の悲劇」では、東芝の社長を2016年の網川智氏から6代も遡り、当時の東芝としては異例だった技術屋ではなく、営業をバックグラウンドとした西室泰三氏が社長に就任してからおかしくなったということを分析しています。

東芝の問題をテーマにした本はいくつかありますが、大抵、西室氏の2代後の社長である西田氏を戦犯としています。ただし、それでは東芝の問題の根本に行き着かず、さらに深掘りしている「東芝の悲劇」が最も東芝の問題の根本に迫っているのではないかと、僕は考えます)

 

次回へ続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件11

俗物太郎です。

 

先回、日本軍がPDCAを回せていなかった理由である、5要素のうち、ピラミッド構造の頂点に位置する精神主義(陸軍の白兵銃剣主義と海軍の艦隊決戦主義というコンセプト)があることを述べました。

 

今回はそれらのコンセプトを支える下部の要素について書いていきたいと思います。

 

年功序列のシステム

日本軍の人事は年功序列のシステムに基づいており、戦時中においても上を飛び越えるような抜擢人事はありませんでした。これに対し、米軍のミッドウェー作戦時に活躍したスプルーアンスとハルゼーの両提督は、太平洋艦隊司令長官であるニミッツ大将の抜擢人事でした。

 

年功上列というシステムは、能力よりも年次のほうが優先されるため、優秀な若手の登用はなく、組織に変化を起こすダイナミズムが失われます。

 

ただし、最初に述べた陸海軍のコンセプトを貫くという観点に立てば、年功上列は経験がものを言うので、より陸海軍のコンセプトに馴染んだ年次の上の者が、より下のものよりコンセプトを体現していると考えられます。

つまり、能力主義を採用するより、年功上列システムを採用する方が、精神主義をより保持する事ができます。

 

③学校秀才を重用

これは年功上列システムをベースとしながら、昇進させる際の考え方のことを意味しています。

まず、士官になる者は、陸海軍それぞれの士官学校に入学し、その後その中で成績の上位者が陸海軍それぞれの高等教育機関である、陸軍大学校海軍大学校へ進みます。

両校で育成される人材としては、陸軍は高級参謀(高級参謀を経て将官へ)、海軍は将官でした。

さらに、両大学校では、成績によって序列ができ、成績の上位者がその後将官になっていきます。

 

教育内容として、陸軍は戦術を中心とした軍務重視型の教育が行われ、一方、海軍は理数系教育を重視して行われていました。いずれも成績上位者となるのは、理解力、記憶力の良い者でした。

(これは現在の学校教育にも当てはまります。ちなみに、学校成績の優秀なものが官僚になっていくと考えると、日本軍の将官を選定していく考え方と、日本の官僚を選定していくシステムは同じと言えます。つまり、日本軍の将校は官僚のように事務処理能力に長けていたと考えることができます。)

 

日本軍は既存の枠組みの中での最適解を出す能力に長けた者、言い換えると事務処理能力が高い者が、昇進していく仕組みでした。

ただし、既存の枠組みで最適解を出す能力は、戦争中のように環境が目まぐるしく変化し、既存の枠組みが通用しない状態では十分に発揮されません。

また、教育内容についても陸海軍それぞれの白兵銃剣主義、艦隊決戦主義のコンセプトに基づいているため、その中で優秀な成績を収めることはすなわちコンセプトの強化に繋がります。

 

④縦割りの組織

米軍が戦時中、統合参謀本部を作り、大統領をトップとして陸海軍の上位に置くことで、両者の調整を図り、連携して作戦を実行することができました。

一方、日本軍も陸海軍所属のもと大本営を作りましたが、両者の意見を調整するような上部構造はありませんでした。

唯一、その機能を担っていると言えるのは天皇でしたが、作戦内容の是非について判断する権利はなく、大本営から上梓する作戦を承認する機能しか持ち得ませんでした。

そのため、陸海軍で意見が割れた場合、両者の意見が並存するような歪な作戦が実行されることになります。

つまり、元々日本軍には組織間を横串でまとめ上げるという発想がなく、縦割りの組織の中で、上下のライン上で完結し、横からの情報共有をベースに柔軟に判断していく余地がありませんでした。

陸海軍ともどもそれぞれの発想のベースが所属する組織から拡がることはなく、日本軍の作戦の幅は米軍に比べて狭いものになってしまいました。

 

また、先回の記事で少し触れましたが、陸軍と海軍ではそもそも仮想敵国が異なっていました(陸軍:ソ連、海軍:米国)。そのため、太平洋戦争後半のレイテ海戦など、陸海軍の総力戦として臨む場合にも、仮想敵国の違いに基づく考え方の違いから、その能力を十分に発揮できていなかったと考えられます。

 

結局、縦割りの組織の中で陸海軍それぞれのコンセプトは熟成され、より強固になっていくことになります。

 

⑤和を大切にする風土

これは、日本人の美徳としてあげられることが多い要素ですが、こと戦争中のような緊急時、かつ軍隊のような官僚的組織において、大きくマイナスに働くことを理解しておく必要があります。

 

それは科学的合理性に基づく判断よりも、人と人との「間柄」を重視したり、その場の「空気」を重視したりする、情緒的判断が優先されるということです。

これは紹介してきた日本軍の失敗事例の中でも散見されます。

 

例えば、インパール作戦では成功する可能性が低いと誰もが分かっていたにも関わらず、牟田口中将の上司である河辺ビルマ方面軍司令官は、以前の上司と部下という関係もあり、「牟田口の意見を通してやりたい」という情緒的判断を下してしまいます。

また、同じインパール作戦についての会議上では、牟田口中将の熱意に押され、他の将校達は問題点を認識していたものの、それを言い出すことの出来ない「空気」がその場を支配しており、インパール作戦実行を黙認してしまいます。

 

この会議上での「空気」とは、慎重論を唱える事が、すなわち消極的な態度として糾弾されてしまうという状況を意味しています。

 

「間柄」や「空気」が支配的になるということは、責任が曖昧になることに繋がります。

合理的判断に基づいていないということは、因果関係が成り立っていないということであり、作戦が失敗した時の責任を追求することが難しくなります。

つまり日本軍における失敗において、信賞必罰の原則は成り立たず(むしろ信賞に偏重)、評価は、結果ではなく、やる気やプロセスに関してなされます。

 

客観的に見て明らかに間違った作戦であるインパール作戦において、牟田口中将は作戦立案時の熱意を評価され、惨憺たる結果については、司令部から更迭はされたものの、厳しく処罰されることはありませんでした。それどころか、後に陸軍予科士官学校の校長に就任しています。

 

一方、米軍の場合、例えば日本軍の真珠湾攻撃による奇襲を受けて損害を出した責任として、太平洋艦隊司令長官のキンメル大将はその後、軍法会議にかけられ厳しく処分されています。

 

以上、和を大切にする風土は、平時やうまくいっている時は特に問題になりませんが、太平洋戦争においては、合理的判断がなされず(「失敗の本質」 内で言及されていますが、山本七平氏はこれについて「日本軍の最大の特徴は『言葉を奪ったこと』と言い表しています」)、責任の所在が曖昧になってしまいました。

その結果、日本軍は失敗から学ぶ機会を失ってしまったと言えます。

つまり、PDCAでいう、Checkが働かなくなってしまったのです。

 

 再度示しますが、下記の5要素が分かち難くお互いを補完し合い、ガッチリと日本軍の組織の屋台骨になってしまっていたため、PDCAが回せなくなってしまいました。

 

精神主義

②年功上列のシステム

③学校秀才の重用

④縦割りの組織

⑤和を大切にする風土

 

そして、これがまさに日本軍の失敗事例を分析してあぶり出した日本組織の弱みです。

さらに、先述したように環境次第で上手くハマれば、これが強みに変わることもあります。

繰り返すと、上記の5要素は日本組織の強みでもあり、弱みでもあります。

これが、今回のテーマの結論になります。

 

ちなみに強みになる場合は、まさに高度経済成長期の日本に当てはまります。上記の①精神主義を、「高品質な製品を低価格で大量生産する」というコンセプトに置き換えれば、以降の要素をそのまま転用できます。上記コンセプトで日本の製品が世界を席巻し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(ハーバード大 エズラ・ヴォーゲル教授著)と賞賛されるまでになりました。

 

これまで「失敗の本質」を参考に日本軍の失敗事例を紹介し、それを元に日本の組織の特徴を説明してきました。

 

上記著書は、日本軍の失敗に学び、日本の組織が自ら学びながら変革していく自己変革型の組織になる事が必要という提言で締めくくられており、現代の日本の組織に向けて書かれています。

 

「失敗の本質」が刊行されたのは1984年で、刊行時点で戦後40年以上が経過し、1991年に文庫化され、2018年現在においてもなお読み継がれています。

 

このことは、日本の組織が日本軍の失敗から学び、今だに自己変革型組織になっているとは言い難い現状を表しているのではないでしょうか。

 

では次回、直近の日本組織の失敗事例として記憶に新しい東芝の問題について、先に挙げた日本組織の特徴である5要素を踏まえて分析したいと思います。

 

 

 

 

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件⑩

俗物太郎です。

 

4.日本の組織の強みと弱み

 

さて、ここまで「失敗の本質」より太平洋戦争における日本軍の失敗について説明して来ました。

改めてここで、「失敗の本質」に書かれている日本軍が太平洋戦争での失敗事例における、失敗の本質について再度書きたい思います。

 

「日本軍は組織としての学習棄却が出来ていなかった」

 

これをもう少し耳慣れた言葉に直すと、下記になります。

 

「日本軍は組織としてPDCAが回せていなかった」

 

さらにこれを敷衍して今回のテーマ全てにわたる結論も再度示します。

 

「日本の組織はPDCAが回せていない」

 

上記を踏まえ、話を日本軍に戻すと、なぜ日本軍は組織としてPDCAが回せていなかったのでしょうか。

ノモンハン事件から始まるこれまで紹介してきの6つの失敗事例を踏まえると、下記5つの要素に集約されます(ちなみに以下5つの要素は「失敗の本質」を読んで、以降の話も踏まえて僕自身で再構成しました)。

 

精神主義

年功序列のシステム

③学校秀才を重用

④縦割りの組織

⑤和を大切にする風土

 

これらの5つの要因は「①精神主義」を頂点とし、「⑤和を大切にする風土」を土台とするピラミット構造と捉えることができます。

 

これらの要素が日本軍という組織の中で屋台骨として存在し、これがPDCAを回すことを阻害しています。また、この構造は大変強固であるため、組織自体が崩壊するレベルのことが起きない限りは無くなりません。

ただ、上記の5要素について改めて見てみると、日本軍の失敗の要因という文脈がなければ、良い意味で捉えられるものでもあります。

つまり、上記の5要素はその時々の環境に依存していることを表しています。5つの要素がその時の環境とカチッとハマれば、組織としての強さを強化する駆動力となります。逆に環境が合わなければ、全く力を発揮できないばかりか、日本軍の失敗事例に表れているように、むしろマイナスに働いてしまいます。

ここで、結論をさらに押し進めてしまいますが、よく日本の製品に対し、ガラパゴス化と言われますが、これは言葉を変えると、「ある環境に対し過剰に適応してしまったこと」を意味しています。

過剰に適応するということはすなわち、一時隆盛を誇った恐竜が環境変化に耐えられず、絶滅してしまったように、変化に対する脆弱性を内包しているということです。

ということは、上記5要素はある環境に対し、組織として過剰適応するための必要条件と言うことが出来ます。

 

ちょっと結論に向かって説明を急ぎすぎてしまいましたが、元に戻って、これまでの日本軍の失敗事例に照らし合わせて、日本軍がPDCAを回せなかった理由である①~⑤の要素をそれぞれ見て行きたいと思います。

 

精神主義

これは何を意味しているか一言でいうと、「はじめにコンセプトありき」ということです。

これまで述べてきた日本軍の失敗事例における日本軍の性格、作戦の特徴含め全ての底流に流れる最も重要な要素です。

例えば、日本軍の失敗要因の中で所々に現れる要因として「事実を軽視」があります。ノモンハン事件ではソ連軍の大兵力を十分に把握していなかったり、ガダルカナル作戦では第1陣が米軍の圧倒的戦力の前に惨敗を喫したにもかかわらず、戦力の逐次投入しかしませんでした。

 

また、「事実の軽視」は、情報収集の軽視にもつながります。

具体的には、暗号解読やレーダーなどの索敵装備の軽視です。ミッドウェー海戦では、戦闘前に既に日本の暗号は米軍に解読されてしまっていましたし、日本の艦隊は米軍のレーダーによっても先に発見されていました。

ただし、太平洋戦争において、精神主義の一番の問題は、事実よりも精神を上位に置くことで、相手の実力を過小評価してしまうことです。言い換えると相手に対する驕りが出てしまうということです。

 

特にノモンハン事件インパール作戦ガダルカナル作戦などの陸戦において、顕著に表れています。

それぞれの陸戦では作戦立案時に「なんとなく決死の作戦を立てれば、相手に勝ってしまうような楽観論」に支配されていました。

 

例えば、インパール作戦では、補給の観点から失敗の可能性が高いにも関わらず、作戦立案者の牟田口中将は食料に関して、「敵から奪えば良い」や、敵についても「銃を空に向かって3発撃てば敵は降伏するから安心して良い」という趣旨の発言をしており、決死の覚悟で敵と戦えば、勝つに決まっているという思い込みに支配されていました。

 

ちなみに、なぜこのような精神主義が日本軍に根付いていたかは「失敗の本質」で説明されており、日露戦争にまでさかのぼることになります。それは陸軍と海軍でそれぞれ異なったコンセプトととして組織に深く根付いています。

 

陸軍:白兵銃剣主義

海軍:艦隊決戦主義

 

上記のコンセプトが最初に述べた5要素からなるピラミッドの頂点にあり、下部構造に支えられ、揺るがない屋台骨を形成してしまっているのです。

つまり、日本軍は太平洋戦争より40年近く前のコンセプトで米軍と戦っていたのです。

 

では陸海軍それぞれのコンセプトは具体的に日露戦争の何に起因しているのでしょうか。

これらは、それぞれ日露戦争における日本軍の成功体験をベースにしています。

 

陸軍の白兵銃剣主義については、乃木希典大将の実行した肉弾突撃による旅順要塞攻略であり、海軍の艦隊決戦主義については、東郷平八郎元帥がロシアのバルチック艦隊を撃破した成功体験がベースになっています。

これらの成功体験が、陸海軍の戦闘におけるコンセプトとして「綱領」に落とし込まれ、年月を経て聖典となり、乃木大将や東郷元帥はそれらを体現した英雄として祭り上げられます。

それぞれのコンセプトは陸海軍の作戦から、それぞれの兵器の設計思想にまで落とし込まれています。

 

例えば、海軍の艦隊決戦主義でいうと、レイテ海戦におけるレイテ湾突入前の栗田艦隊の謎の反転も、実際には敵艦隊がいなかったものの、艦隊決戦を優先した結果と言えます。

また、海軍の兵器についても当時のリソーセスがなかったこともありますが、どちらかというと防御より、攻撃力重視の設計になっています(ミッドウェー海戦時に日本の空母は敵の攻撃で簡単に炎上し、航行不能になってしまいましたし、敵に恐れられた零戦も防御力については殆ど無いに等しい設計でした)。

繰り返しますが、日本軍の全ての失敗の大元は、これらのコンセプトから脱却出来なかったためです。

 

ちなみに、陸海軍のコンセプトの違いに加え、両者が想定していた敵もそれぞれ異なっていました。

もともと海軍は米国を仮想敵国と想定していましたが、陸軍の仮想敵国はソ連でした。しかも、戦闘は大平野で戦うことを前提としていました。そのため、ガダルカナル作戦やインパール作戦のようにジャングルで戦うことについて想定していませんでした。

 

以降、これらのコンセプトを支える下部構造について説明して行きます。

 

自衛隊のことを調べてみたら日本の組織の強みと弱みが分かってしまった件⑨

俗物太郎です。

 

沖縄戦

いよいよ太平洋戦争の終盤である沖縄戦になりました。

この沖縄戦は既に米軍が沖縄に上陸してしまったところからスタートします。

この戦いは日本軍第32軍  約86,400名と米軍238,700名との沖縄での戦いのことを言います。

戦死者は日本側 将兵65,000名、住民約100,000名、米国側 将兵12,281名という凄惨な結果となりました。

 

沖縄戦は太平洋戦争の終局でもあり、日本軍組織上のまずさが全て集約されているといっても過言ではありません。

沖縄戦で失敗した要因を下記に示します。

 

・現場感のない机上の作戦だった

大本営と現地のコミュニケーションギャップを双方が解消しようとしなかった

 

まず1つ目ですが、日本軍の大本営は米軍の沖縄上陸を、米軍を叩くチャンスにしようと考えていました。そのため、沖縄の航空基地を確保し、航空機によって上陸中の米軍を攻撃し、甚大な被害を与えようと考えていました。これには天号作戦という名前がつけられています。

 

しかし、実際は沖縄戦の前にあった九州沖航空戦で多くの海軍所有の航空機が失われており、陸軍所有の第六航空軍の配備が大幅に遅れたことも重なり、実働できる航空機は陸海軍合わせて、420機程でした。

結局、米軍の沖縄上陸時に大した打撃を与えることが出来ず、米軍はほぼ無傷で上陸することになります。

さらに、大本営が天号作戦実行のため利用しようと考えていた、沖縄の北・中飛行場も米軍上陸後1日で抑えられてしまいます。このことは大本営に少なからぬ衝撃を与えました。

大本営は沖縄に米軍の大兵力が上陸した後も、この飛行場を利用した航空作戦にこだわり、実働部隊の第32軍に何度も北・中飛行場奪還を催促します。

これまで述べてきた日本軍の失敗事例のうち、特に陸上での戦い(ノモンハン作戦、インパール作戦ガダルカナル作戦)では、大本営が現地をほとんど見ることなく判断をしてしまい、現地の混乱に加え、多大な損害を出してしまっていました。

沖縄戦でもまさに同じような状況が起こっており、これが2つ目の要因にも繋がりますが、現地司令部の大本営に対する強い不信感に繋がります。

 

2つ目の大本営と現地のコミュニケーションギャップを双方が解消しようとしなかったとはどういうことでしょうか。

これはそもそも大本営と現地でまず考え方のギャップが存在しているところから始まります。

大本営は上記に述べたように、飛行場を活用した航空決戦を望んでいました。

一方、現地の牛島中将率いる第32軍は、現有戦力を踏まえると、持久戦に持ち込まざるを得ないと考えていました。

この考えの違いが、そもそものコミュニケーションギャップの根元にありました。

さらに、沖縄戦に至るまでにもコミュニケーションギャップを深める事象が起きていました。

まず、戦局の悪化に伴い大本営は部隊編成の見直しを検討し始めます。そして、大本営から沖縄の現地部隊に対し、フィリピンに部隊を送るよう要請が来ます。これを決める会議が台北で開催されました。

現地は持久戦を考えていたため、これ以上部隊を減らされると困るので、部隊派遣が出来ない旨の意見書を書き、台北に参集された八原参謀も上司の長少将指示のもと、会議中は意見書のみを提出し、あとは沈黙を貫きます。この意見書と沈黙を貫く八原参謀の態度によって会議ではまともな議論が出来ず、大本営と現地の間に不信感が生まれ、以降のコミュニケーションを阻害する下地ができてしまいました。

 

しかし、程なくして再度大本営より兵力、しかも精鋭部隊を送るよう要請が来て、結局精鋭の第9師団を送ることになりました。

ただし、これについては大本営も後から沖縄の部隊の補充について検討し、姫路の第84師団を送ることを一旦決めるのですが、直前になり、後に起きるであろう日本の本土決戦に備えるという理由から、第84師団の派遣は中止されてしまいます。

以上のような経緯があり、現地は大本営の指令を無視し、独断で持久戦に突入することになります。

この時点で、大本営は軍という組織において、現地の統帥が出来ていませんし、現地も大本営への不信感はあれど、軍という組織の中にいる以上、それを無視した独断をしているので、日本軍が組織として崩壊してしまっています。

結果的に、双方の間のコミュニケーションギャップを埋まらないまま、米軍は上陸を果たしてしまいました。

 

まとめると、現場を見ない大本営と、大本営を無視する現場という構図になってしまい、もはや日本軍が組織としての機能を失ってしまっていたのが沖縄戦でした。

他国と戦闘する軍が組織としての機能を失ってしまった段階で、既に日本は戦争に負けたと言えます。

その後、米軍の本土攻撃が始まって行きますが、日本国民の一方的な虐殺でした。

このことから日本軍は負けることにも失敗したと言えるかもしれません。

 

次はこれまでの日本軍の失敗事例を踏まえ、日本の組織としての強みと弱みを示したいと思います。